清瀬 一郎
キヨセ イチロウ
- 肩書
- 衆院議長(自民党),文相
- 生年月日
- 明治17年7月5日
- 出生地
- 兵庫県
- 学歴
- 京都帝国大学独法科〔明治41年〕卒
- 学位
- 法学博士
- 経歴
- 弁護士を経て、大正9年衆院議員に当選。以来革新倶楽部、革新党、改進党、日本民主党、自民党から出馬し14期。昭和3年衆院副議長、東京弁護士会会長。7年国民同盟幹事長、のち時局同志会を経て、翼賛会・翼政会・日政会の総務。極東国際軍事裁判では日本人弁護団副団長、東条英機の主任弁護人を務めた。政界に復帰後は27年から衆院議員を6期。改進党幹事長、日本民主党政調会長、第3次鳩山内閣の文相、’60年安保闘争時の衆院議長等を歴任。教育委員の任命制、’60年安保条約の強行採択を敢行した。一方、自民党党内の清潔派として知られ、党綱紀粛正調査会会長として“黒い霧”事件を調査し粛党答申をまとめた。また東京弁護士会会長をつとめた。著書に「特許法原理」「秘録 東京裁判」など。
- 受賞
- 勲一等〔昭和39年〕
- 没年月日
- 昭和42年6月27日
- 家族
- 長男=清瀬 一輔(学術選書会長) 二男=清瀬 信次郎(亜細亜大学教授) 息子=清瀬 義三郎(ハワイ州立大学名誉教授)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
清瀬 一郎
キヨセ イチロウ
大正・昭和期の政治家,弁護士 衆院議長(自民党);文相。
- 生年
- 明治17(1884)年7月5日
- 没年
- 昭和42(1967)年6月27日
- 出生地
- 兵庫県
- 学歴〔年〕
- 京都帝国大学独法科〔明治41年〕卒
- 学位〔年〕
- 法学博士
- 主な受賞名〔年〕
- 勲一等〔昭和39年〕
- 経歴
- 弁護士を経て、大正9年衆院議員に当選。以来革新倶楽部、革新党、改進党、日本民主党、自民党から出馬し14期。昭和3年衆院副議長、東京弁護士会会長。7年国民同盟幹事長、のち時局同志会を経て、翼賛会・翼政会・日政会の総務。極東国際軍事裁判では日本人弁護団副団長、東条英機の主任弁護人を務めた。政界に復帰後は27年から衆院議員を6期。改進党幹事長、日本民主党政調会長、第3次鳩山内閣の文相、’60年安保闘争時の衆院議長等を歴任。教育委員の任命制、’60年安保条約の強行採択を敢行した。一方、自民党内の清潔派として知られ、党綱紀粛正調査会会長として“黒い霧”事件を調査し粛党答申をまとめた。また東京弁護士会会長を務めた。著書に「特許法原理」「秘録 東京裁判」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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清瀬一郎
きよせいちろう
(1884―1967)
政治家、弁護士。兵庫県生まれ。京都帝国大学独法科卒業。弁護士から1920年(大正9)衆議院議員となる。治安維持法に反対したが、のちに国家主義的となる。東京弁護士会会長を務め、第二次世界大戦中は大政翼賛会総務などを歴任。終戦後、公職追放。極東国際軍事裁判の日本人弁護団副団長で、東条英機(とうじょうひでき)の主任弁護人となる。追放解除後政界に復帰。改進党幹事長などを歴任し、1955年(昭和30)第三次鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣文相。1960年の新安保条約の審議に際しては衆議院議長として強行採決を行う。自民党顧問。著書に『秘録・東京裁判』など。
[小田部雄次]
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清瀬一郎
きよせいちろう
[生]1884.7.5. 兵庫
[没]1967.6.27. 東京
弁護士,政治家。京都大学を卒業し弁護士となり,特許権法を研究し,法学博士となった。 1920年以来衆議院議員に 14回当選,衆議院副議長,国民同盟幹事長,大政翼賛会総務を歴任。第2次世界大戦後の極東国際軍事裁判で東条英機被告の主任弁護人をつとめた。公職追放解除後,改進党幹事長,55年鳩山内閣の文相。この間,憲法第9条の解釈として「清瀬理論」を案出。同条項の枠内での自衛力保持を肯定した。 60年,日米新安全保障条約を採決したときの衆議院議長であった。
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清瀬一郎 きよせ-いちろう
1884-1967 大正-昭和時代の政治家,弁護士。
明治17年7月5日生まれ。大正9年衆議院議員(当選14回)。第1回普通選挙後に衆議院副議長。大政翼賛会総務をつとめ,戦後,東条英機(ひでき)の主任弁護人として,東京裁判の不当性と自衛戦争を主張した。第3次鳩山(はとやま)内閣文相。昭和35年衆議院議長となり,新安保条約承認の強行採決をおこなった。昭和42年6月27日死去。82歳。兵庫県出身。京都帝大卒。著作に「秘録東京裁判」など。
【格言など】東京裁判のような復讐(ふくしゅう)劇を興行して,永遠の平和がころげ込むものではない(「秘録東京裁判」)
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清瀬 一郎 (きよせ いちろう)
生年月日:1884年7月5日
大正時代;昭和時代の政治家;弁護士。衆議院議長;文部大臣
1967年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の清瀬一郎の言及
【東京裁判】より
…起訴状は,訴追対象を1928年1月1日から45年9月2日までとし,28名の被告を〈平和に対する罪〉〈殺人〉〈通例の戦争犯罪及人道に対する罪〉に概括する55の訴因で起訴し,とくに訴因第1の1928年からの〈平和に対する罪〉の包括的共同謀議には全被告が該当するとした。
[裁判の経過]
公判は1946年5月3日開始し,法廷成立手続,起訴状朗読,被告の罪状認否の申立てがなされたが,清瀬一郎弁護人は裁判官忌避,裁判管轄権に対する異議申立ての動議を提出した。管轄権動議は〈平和に対する罪〉〈人道に対する罪〉が〈事後法〉(ある行動がなされたのちに,それを処罰する法を制定すること)に相当するものであり,〈罪刑法定主義〉に反するとの趣旨であったが,キーナン検事は裁判所憲章はパリ不戦条約などすでにある国際法を宣言しているものだと反駁(はんばく)し,裁判官も〈理由は将来において述べる〉として弁護側動議を却下した。…
※「清瀬一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」