清見寺町の街区東部の北側、
寺蔵の旧記によれば、天武天皇の代に設けられた
室町時代の五山十刹制度のなかで、当寺は十刹の寺格を与えられた。暦応四年(一三四一)五山位次改定に伴って十刹一〇ヵ寺が定められ、翌五年四月二三日の重沙汰により十刹の第九位とされた(扶桑五山記)。その後十刹の寺院数は漸増し、康暦二年(一三八〇)の足利義満による改定では同一〇位(同書)、延徳年間(一四八九―九二)には第一一位に位置づけられている(蔭涼軒日録)。当寺の住持は、五山派寺院の任免権を掌握する幕府によって選任された僧が輪番で勤めている。このため室町時代には漢籍・詩文などに造詣が深い僧が数多く入寺し、中央文化が移入され、学問の府となった。暦応四年には京都
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
静岡市清水(しみず)区興津清見寺町(おきつせいけんじちょう)にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の寺。正しくは巨鼇山(こごうさん)求王院(ぐおういん)清見興国寺(こうこくじ)といい、俗に「きよみでら」ともいう。本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。白鳳(はくほう)年間(7世紀後半)交通の要地清見(きよみ)関の鎮護のために一寺を建立し、中国僧教叟(きょうそう)を住させたのが開創と伝えられる。1261年(弘長1)に聖一国師(しょういちこくし)(円爾(えんに))の流れをくむ臨済宗の僧関聖(かんしょう)が復興したというが、異説が多い。康永(こうえい)年間(1342~45)足利尊氏(あしかがたかうじ)は堂宇を増築して清見興国禅寺の号を与え、天文(てんぶん)年間(1532~55)今川義元(よしもと)の一族の妙心寺太原崇孚(たいげんすうふ)(雪斎)が住職となってから寺門は繁栄し、徳川家康は1580年(天正8)3世住持の大輝(だいき)に紫衣(しえ)を与えた。古来、観月の名所として知られ、多くの詩文に書かれた。庭園は国の名勝に指定されている。また境内には五百羅漢石像のほか、家康手植えの梅、武田信玄(しんげん)寄進の梵字(ぼんじ)見台など、武将にゆかりのあるものが多い。
[菅沼 晃]
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