清見寺(読み)セイケンジ

デジタル大辞泉 「清見寺」の意味・読み・例文・類語

せいけん‐じ【清見寺】

静岡県静岡市にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は巨鼇こごう山。7世紀後半、清見ヶ関きよみがせき鎮護のため建立した関寺に始まるといわれ、弘長元年(1261)無伝聖禅が再興して臨済宗に改めた。室町時代足利尊氏が再興、将軍義詮よしあきらのとき十刹じっせつの第九位。きよみでら。

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精選版 日本国語大辞典 「清見寺」の意味・読み・例文・類語

せいけん‐じ【清見寺】

  1. 静岡市清水区興津にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は巨鼇(こごう)山。天武天皇のときに清見関(きよみがせき)が設けられ、その関舎鎮護のために建立されたと伝えられる。興国年間(一三四〇‐四六)足利尊氏が再興して以来、日本十刹(じっせつ)の一つに数えられた。のち今川氏、豊臣氏徳川氏などの保護をうけた。境内は清見潟田子浦を展望できる風景絶佳の地として知られる。きよみでら。

きよみ‐でら【清見寺】

  1. せいけんじ(清見寺)

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日本歴史地名大系 「清見寺」の解説

清見寺
せいけんじ

[現在地名]清水市興津清見寺町

清見寺町の街区東部の北側、三保みほ半島を望む山裾に位置する。巨鼇山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は観音菩薩。古くから東海道筋の名刹として知られ、当寺から眺める清見きよみ潟は絶景といわれた。現在、境内はJR東海道本線によって南北に二分される。旧東海道に南面した総門をくぐり、二分された境内をつなぐ橋を渡ると山門(銘慶安四年、明治二四年改築)に至る。山門の正面に仏殿(銘慶長四年、天保一五年再建)、右手に大玄関(銘元和二年)・本堂(銘慶長四年、文政一一年再建)・書院(元治元年再建)・庫裏、左手の坂の両側には五百羅漢の石像群(天明二年以降)が並ぶ。本堂の裏には国指定名勝の庭園があり、境内は朝鮮通信使の遺跡として国指定史跡。

寺蔵の旧記によれば、天武天皇の代に設けられた清見きよみ関を守護する寺として創建されたという。初めは天台寺院であったと推定され、鎌倉建長寺の建立とほぼ同じ頃に禅院になったと考えられる(寺蔵鐘銘)。弘長元年(一二六一)円爾弁円(聖一国師、京都東福寺開山)の法嗣無伝聖禅が再興、師円爾を請して落慶法要が営まれた(聖一国師年譜)。現在、当寺が開山として安置している関聖上人像の銘には「聖一国師嫡弟、清見寺性海庵開山」とみえるが、関聖上人と無伝聖禅が同一人物かどうかは不明。当寺の正称巨鼇山清見興国禅せいけんこうこくぜん寺は、北条時頼開基の建長寺の正称巨福山建長興国禅けんちようこうこくぜん寺と通じること、また北条時宗に招かれた宋僧無学祖元が弘安二年(一二七九)に「清見寺」と題した詩を作っていることなどから(仏光国師語録)、鎌倉時代の当寺は、幕府の護国のための禅林政策に組入れられた寺院であったと推定される。

室町時代の五山十刹制度のなかで、当寺は十刹の寺格を与えられた。暦応四年(一三四一)五山位次改定に伴って十刹一〇ヵ寺が定められ、翌五年四月二三日の重沙汰により十刹の第九位とされた(扶桑五山記)。その後十刹の寺院数は漸増し、康暦二年(一三八〇)の足利義満による改定では同一〇位(同書)、延徳年間(一四八九―九二)には第一一位に位置づけられている(蔭涼軒日録)。当寺の住持は、五山派寺院の任免権を掌握する幕府によって選任された僧が輪番で勤めている。このため室町時代には漢籍・詩文などに造詣が深い僧が数多く入寺し、中央文化が移入され、学問の府となった。暦応四年には京都建仁けんにん寺第一座玉澗が住持となり(嵩山集)、康永四年(一三四五)八月二九日の京都天龍寺開堂慶讃供養会には、当寺長老智琢(康永二年入寺、「巨鼇山旧雑記」寺蔵)が請僧一〇人の一人として参仕している(園太暦)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清見寺」の意味・わかりやすい解説

清見寺
せいけんじ

静岡市清水(しみず)区興津清見寺町(おきつせいけんじちょう)にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の寺。正しくは巨鼇山(こごうさん)求王院(ぐおういん)清見興国寺(こうこくじ)といい、俗に「きよみでら」ともいう。本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。白鳳(はくほう)年間(7世紀後半)交通の要地清見(きよみ)関の鎮護のために一寺を建立し、中国僧教叟(きょうそう)を住させたのが開創と伝えられる。1261年(弘長1)に聖一国師(しょういちこくし)(円爾(えんに))の流れをくむ臨済宗の僧関聖(かんしょう)が復興したというが、異説が多い。康永(こうえい)年間(1342~45)足利尊氏(あしかがたかうじ)は堂宇を増築して清見興国禅寺の号を与え、天文(てんぶん)年間(1532~55)今川義元(よしもと)の一族の妙心寺太原崇孚(たいげんすうふ)(雪斎)が住職となってから寺門は繁栄し、徳川家康は1580年(天正8)3世住持の大輝(だいき)に紫衣(しえ)を与えた。古来、観月の名所として知られ、多くの詩文に書かれた。庭園は国の名勝に指定されている。また境内には五百羅漢石像のほか、家康手植えの梅、武田信玄(しんげん)寄進の梵字(ぼんじ)見台など、武将にゆかりのあるものが多い。

[菅沼 晃]

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百科事典マイペディア 「清見寺」の意味・わかりやすい解説

清見寺【せいけんじ】

静岡県静岡市にある。臨済宗妙心寺派の寺。本尊釈迦牟尼仏。天武(てんむ)天皇の代に清見(きよみ)が関(せき)鎮護の関寺として建立という。初め真言宗であったが,開基今川範国(いまがわのりくに),開山無伝聖禅(むでんしょうぜん)が再興して臨済宗に改宗。足利尊氏(たかうじ)によって駿河(するが)国安国(あんこく)寺(安国寺・利生塔)に当てられ,十刹(じっせつ)に列した。応仁・文明の乱後衰退,1539年太原嵩孚(たいげんすうふ)が中興開山として再興,妙心寺派となる。宋版石林先生尚書伝は重要文化財。

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デジタル大辞泉プラス 「清見寺」の解説

清見(せいけん)寺

静岡県静岡市清水区にある寺院。臨済宗妙心寺派。正称は「巨鼇山(こごうさん)求王院(ぐおういん)清見興国禅寺」。7世紀後半、関所の鎮護のためにつくられた仏堂が起源と伝わる。平安時代には天台宗の寺だったと見られ、鎌倉時代に臨済宗に改宗。足利尊氏に崇敬され、徳川家康にも庇護された。庭園は国の名勝。朝鮮通信使遺跡として広島県の福禅寺、岡山県の本蓮寺とともに国の重要文化財に指定されている。

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