安国寺利生塔(読み)あんこくじりしょうとう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安国寺利生塔」の意味・わかりやすい解説

安国寺利生塔
あんこくじりしょうとう

足利尊氏,直義兄弟が全国に建立した塔。夢窓疎石のすすめによる。 66国2島ごとに1寺1塔の寺塔を建立し,後醍醐天皇冥福を,また元弘以来の戦死者の冥福,菩提を祈ると同時に往時の国分寺建立の趣旨にならい,足利氏天下統一の威信抱負誇示,さらに軍略上の拠点とすることを目的とした。塔には仏舎利2粒を納めた。興国5=康永3 (1344) 年7月,通称してその寺を安国,塔を利生と号せんことを請い,翌年2月,光厳院院宣をもって勅許された。主として直義の計画になり,最も早く建立されたといわれる延元3=建武5 (1338) 年5月着手の和泉国久米田寺や最も遅いといわれる応永年間 (94~1428) 頃建立の豊後国安国寺を除くと,大部分は 14世紀なかばに完成した。ただし,南朝勢力の存する地方は明確でなく,大和,河内尾張,武蔵,越中紀伊など6ヵ国のものは存否不明。常陸,上野2国のものは不確実である。その他はだいたい建立されたが,経済的理由により,料所を寄進して在来の寺塔を修補,改名したものが相当あり,新規に建立されたものは少い。室町幕府衰退とともに次第に衰えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安国寺利生塔」の意味・わかりやすい解説

安国寺利生塔
あんこくじりしょうとう

南北朝時代に設定された寺院制度の一つ。1336年(延元1・建武3)の室町幕府開創後まもなく、元弘(げんこう)(1331~1334)以来の争乱による戦没者の弔霊と天下太平を祈願するため、将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)と当時兄にかわって政務を代行していた直義(ただよし)の兄弟の発願により、全国に、国ごとに寺院1宇と塔婆1基を建立することが定められた。1345年(興国6・貞和1)2月には、幕府の要請によって、それらの各国の寺、塔に対してそれぞれ安国寺、利生塔と称することが勅許された。現在、安国寺は59か国において設定されたことが確認されるが、そのほとんどは既存の臨済(りんざい)宗五山(ござん)派の禅刹(ぜんさつ)を安国寺に指定したものである。一方、利生塔は66か国2島に計68基が設置されたことは確実で、それらの大半は真言(しんごん)、天台(てんだい)、律(りつ)などの旧仏教系寺院であり、形式は五重塔と三重塔で、仏舎利(ぶっしゃり)各2粒が奉納された。これらの寺塔は民心慰撫(いぶ)とともに、反幕勢力への監視・抑制という政治的役割を果たした。

[今谷 明]

『今枝愛真著『中世禅宗史の研究』(1970・東京大学出版会)』

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百科事典マイペディア 「安国寺利生塔」の意味・わかりやすい解説

安国寺・利生塔【あんこくじ・りしょうとう】

南北朝時代全国に建立された寺塔。足利尊氏・直義(ただよし)兄弟は,夢窓疎石の勧めで,1338年ころから各国に一寺(安国寺)一塔(利生塔)の建設を始めた。寺は既存の禅宗寺院を改修した場合が多い。元弘年間(1331年−1334年)以来の戦没者慰霊と同時に足利氏の威信を天下に誇示しようとした意味があり,これによって禅宗は地方に発展し,禅宗以外の宗教は統制を受けた。諸国安国寺の筆頭は丹波安国寺(現京都府綾部市)。
→関連項目清見寺不動院薬師寺

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旺文社日本史事典 三訂版 「安国寺利生塔」の解説

安国寺・利生塔
あんこくじ・りしょうとう

南北朝時代,足利尊氏・直義が全国に設けた寺・塔
夢窓疎石の勧めで後醍醐 (ごだいご) 天皇以下戦死者の冥福を祈り,天下統一誇示のため,国ごとに1寺1塔を設置,光厳 (こうごん) 院の院宣 (いんぜん) を得,寺を安国,塔を利生と称した。在来の寺・塔を修補したものが多い。臨済宗の地方波及と他宗派の統制に役だったが,室町幕府の衰退とともに衰えた。

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