中国の古い宇宙構造論で天球説をとる。天は球形であるとする考えは戦国時代からあったようであるが、前漢時代に落下閎(らっかこう)・鮮于妄人(せんうもうじん)・耿寿昌(こうじゅしょう)がこの説に基づく儀器をつくったことが、蓋天説(がいてんせつ)派から渾天説派に転向した揚雄(ようゆう)の『法言(ほうげん)』に記されており、このころすでに存在したことは確かである。後漢(ごかん)の張衡(ちょうこう)の『渾天儀注』は渾天説を論じた代表的な書で、宇宙を鶏卵(けいらん)に例え、天は弾丸のように丸く、大地は卵黄のように天の中心に位置し、天は南北極を軸に回転すると述べ、天球を仮定して天体の見かけの運行を扱う今日の球面天文学に相当する議論を、数値を交えて展開し、渾天儀(天球の黄道・赤道などを表す円環を組み合わせた天球模型または観測器械)の構造と製法を述べている。古代ギリシアにも天球概念や渾天儀に相当する儀器(アルミラ球儀)があった。渾天説派と蓋天説派との間では、前漢・後漢のころ、活発な議論が行われ、渾天説が勝利を収めたが、その後は一時的な蓋天説の復活や、両説の調和の試みがあっただけで、宇宙構造論の著しい進展はみられなかった。
[宮島一彦]
『藪内清編、橋本敬造・川原秀城訳『科学の名著2 中国天文学・数学集』(1980・朝日出版社)』▽『能田忠亮著『東洋天文学史論叢』覆刻版(1989・恒星社厚生閣)』▽『新井晋司著「張衡『渾儀注』『渾儀図注』再考」(山田慶児編『中国古代科学史論』所収・1989・京都大学人文科学研究所)』
蓋天説,宣夜説とともに中国古代を代表する宇宙観。渾天説は,渾天を鶏卵にたとえ,弾丸のようにまるい天(殻)が地を包み,地は卵黄のようにその内部に位置し,天は大きく地は小さいと説く。天の表面には水があり,天と地は水をのせて気に支えられている。天の半分は地上を覆い,半分は地下をめぐり,隠れて見えない。両端は南北両極であり,天極すなわち北極は天の中央にあたり,つねに見えていて真北の地平線上36中国度(=35.5°)にあり,南極はつねに地平線下の36度にある。天は車の轂(こく)(こしき)のように回転し,ぐるぐる回って端がなく,渾渾然とした形をしているから渾天というのだと説く。張衡の《霊憲》によれば宇宙空間と天球とは区別されており,太陽・月・五惑星は天球に付着して運行するとされた。地球概念は戦国時代に萌芽したとされるが,天球概念も屈原の《天問》の九重天説に見え,また前漢末の揚雄の《法言》には渾天儀を指す渾天という言葉が見える。
→宇宙
執筆者:橋本 敬造
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…蓋天家はやがてその理論の矛盾を突かれたため,天地は平行な平面ではなく,二つの平行な切断面をもつ球面と修正する(第二次蓋天説)。これに対し,前漢の末に起こって蓋天説を圧倒し,長く後世に信奉されたのが渾天(こんてん)説である。代表的な渾天家である後漢の張衡は,天を卵殻に,地を卵黄にたとえて,天と地の関係を上下ではなく内外でとらえ,天は水に浮かぶ大地を包んで回転するとした(《渾天儀》)。…
…西洋ではギリシア以来,天動説や地動説といった宇宙論を中心に天文学が発達した。中国でも漢代に〈蓋天説〉や〈渾天説〉などの宇宙論があり,その後も〈宣夜説〉などの宇宙論が提唱されたが,あまり大きな発展はなかった。〈蓋天説〉によると,天地はたがいに平行で,中央が高くなる傘状の形をしているという。…
※「渾天説」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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