溝口村(読み)みぞくちむら

日本歴史地名大系 「溝口村」の解説

溝口村
みぞくちむら

[現在地名]筑後市溝口

矢部やべ川右岸に位置し、北から西は久恵くえ村・北長田きたながた村。中世は広川ひろかわ庄のうち。天福二年(一二三四)二月日の坂東寺所役注文案(岡本文書/鎌倉遺文七)に「溝口一人」とみえ、広川庄鎮守熊野神社における九日会二季祭礼に際して用丸もちまる名に賦課された駕輿丁二人のうち一人を当地から出している。なお寛喜二年(一二三〇)二月八日の関東下文案(上妻文書/鎌倉遺文六)にみえる「上妻庄内筑紫部」に下妻しもつま郡内の当村のことという注記があるが、筑紫部は上妻郡であり、案文作成時に書込まれたものであろう。康永二年(一三四三)五月八日に「溝口禅院城」の合戦があった(同年七月日「田原正堅軍忠状」入江文書/南北朝遺文(九州編)二)。弘和元年(一三八一)以降の一二月一三日の大友親世書状(島津家文書/南北朝遺文(九州編)五)によれば、一一月二二日に長田ながた(矢部川)を渡った親世らは当地において菊池武朝の軍勢と合戦し勝利を収めている。室町時代初期と推定される年未詳七月二二日の道永書状写(北野天満宮文書/南北朝遺文(九州編)六)によれば、大山だいせん(現太宰府市)領であった。寛正六年(一四六五)黒木氏らが大友氏に背いた際、大友方は当地などを攻撃して奪っており、当地が筑後国支配に肝要の地であると大友方に認識されていた(一〇月一七日「宝勝院光憧書状」大友家文書/大分県史料二六)。天文一九年(一五五〇)当地付近は大友勢の攻撃をうけ、溝口城は落城した(閏五月二六日「大友義鎮書状」田尻文書/大分先哲叢書「大友宗麟」一など)

溝口村
みぞのくちむら

[現在地名]高津区溝口

東は二子ふたこ村・坂戸さかど村、西は丘陵で下作延しもさくのべ村・久地くじ村、南は久本ひさもと村、北は久地村に接する。川辺六かわべろつそん用水が久地村より入り中央を東流し二子村へ、根方ねかた堀が久地村より入り西の山裾を南流し久本村・坂戸村へ至る。ほかりよう用水本流が同じく久地村より入り坂戸村へ至る。また矢倉沢やぐらさわ往還が二子村から村のほぼ中央を南西へ通り、二ヶ領用水本流を大石おおいし橋で渡り下作延村へ至る。産塚さんづか十三坊じゆうさんぼう馬上免ばじようめん猿屋敷さるやしきなどの小字がある。「風土記稿」は二子村もかつて当村に包摂されていたとする。小田原衆所領役帳には海保新左衛門「弐拾弐貫四百文 稲毛溝之口」とある。

近世は初め幕府直轄領、寛永年間(一六二四―四四)旗本斎藤領、元禄元年(一六八八)幕府直轄領に復した。寛文九年(一六六九)二子村とともに矢倉沢往還伝馬宿となり、両村で人足二人、馬一疋を用意し、伝馬役は上二〇日を溝口村、下一〇日を二子村が勤めた(川崎市史)

溝口村
みぞぐちむら

[現在地名]長谷村大字溝口

北は非持ひじ村、南は黒河内くろごうち村、西は三ッ界みつざかい山をもって勝間かつま(現高遠町)新山にゆうやま(現伊那市)に接し、その東山麓を三峰みぶ川が北流する。東は鹿嶺かれい(狩例山)続きで、村は川東の山麓台地に開けている。

嘉暦四年(一三二九)三月の諏訪社上社の大宮御造栄之目録(諏訪大社上社文書)に「次三間廊、是伊那溝口・黒河内之造役也」とあり、天正六年(一五七八)にも黒河内とともに三間廊造宮の課役を果している。

村の中央西の三峰川に突き出た台地に溝口下の城しものしろの跡が残る。

溝口村
みぞぐちむら

[現在地名]芸北町溝口

山野廻やまのまわり六ヵ村の一つであるが、ようろ川上流域にあたるため他の五ヵ村とは水系が違い、隔たっている。東は志路原しじわら(現豊平町)、西は北から移原うつるばら米沢よねざわ小原こばらの諸村、南は戸谷とだに(現豊平町)、北は高野たかの村と接する。村名は正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」にみえるが、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では山野廻村に含まれた。慶長六年(一六〇一)の検地高は二七五・四六四石、享保一四年(一七二九)の地詰では二七五・八二石と決定したといい、宝暦一〇年(一七六〇)より定免四・九八(国郡志下調書出帳)

溝口村
みぞぐちむら

[現在地名]香寺町溝口

岩部いわべ村の北に位置し、いち川右岸の手城てしろ山に至る河岸段丘の上下に立地する。手城山の西を生野いくの街道が南北に通る。貞和三年(一三四七)六月二四日の刑部守延譲状(広峯文書)に溝口とみえ、溝口などの檀那を息女童子に譲っている。文明一四年(一四八二)八月一〇日の丹後・但馬両国檀那村付注文(肥塚文書)には「ミそくちさふたの衛門」がみえる。神東じんとう宮脇みやわき(現姫路市)正八幡神社の天正一九年(一五九一)九月一日の祭礼奉納神事相極次第(正八幡神社文書)に溝口村とみえる。正保郷帳では田方五七〇石余・畑方一八五石余、「新田有」と注記される。

溝口村
みぞぐちむら

[現在地名]岐阜市溝口・溝口上みぞぐちかみ溝口中みぞぐちなか溝口下みぞぐちしも溝口中野みぞぐちなかの溝口童子みぞぐちどうし溝口東みぞぐちひがし

世保よやす村の南、武儀むぎ川右岸にあり、村の南部は長良川との合流点に近い。慶長郷帳に村名がみえ、高二三八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では堀直寄(越後長岡藩)領。正保郷帳では幕府領で、田一三八石余・畑一〇〇石余、ほかに川年貢米一斗余が課せられていた。以後幕府領として推移したとみられるが、元禄郷帳では村高が二九二石余となっている。文化七年(一八一〇)の村明細帳によれば家数二一・人数二九二、馬一〇。

溝口村
みぞぐちむら

[現在地名]吉井町福永ふくなが

筑後川中流左岸の微高地に位置し、国吉くによし能楽のうらく橘田たちばなだ小江おえ各村と隣接する。吉井町から筑後川を越えて筑前国志波しわ(現杷木町)に至る道筋にあたる。室町時代初期と思われる七月二二日の道永書状写(北野社文書/南北朝遺文(九州編)六)に、筑前大山だいせん(現太宰府市)領として「溝口」がみえる。江戸時代の本高は九〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一八〇石・役高三五〇石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高三五一石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一町五反余・開田一反余・畑田一五町三反余・畑三町五反余・居屋敷二反余。

溝口村
みぞのくちむら

[現在地名]海南市溝ノ口

貴志きし川の北岸、南西流する川が西に向きを変える内側に幅約一キロの平坦地が開ける。那賀なが郡に属し、北はなか村、西は椋木むくのき村、東は小畑しようばた(現海草郡野上町)に接し、南は川を隔てて九品寺くほんじ村・しん村。「続風土記」に「此村の東の端細く小畑村の南に突出て、八幡宮の鳥居を過きて東の方にて川水を堰上け井溝を作りて此村并に椋ノ木・中村・下津野に漑くなり、其溝の口なるを以て村名とす」とある。古くは野上のかみ庄に含まれ、野上七村のうちみなみ村に属した(続風土記)

慶長検地高目録によると村高六六四石余、小物成六升四合であるが、これは後に分村する新村を含み、天保郷帳では三九七石余に減じている。

溝口村
みぞぐちむら

[現在地名]東広島市高屋たかや町溝口

白鳥しらとり山から北流して入野にゆうの川に注ぐ溝口川沿いを村域とする。東の重兼しげかね村、西のごう村との間には比高二〇―三〇メートルの低丘陵があり、その間に入口の狭い盆地状の河谷がある。元和五年(一六一九)安芸国知行帳に二九三・九八石とあり、この高は近世を通じて変わらなかった。広島藩家老堀田浅野氏給知および明知・給知入交じり。

溝口村
みぞのくちむら

[現在地名]加古川市加古川町溝之口かこがわちようみぞのくち

河原かわら村の南東に位置する。溝野口村・溝ノ口村・溝之口村とも記す。天正六年(一五七八)八月頃、小寺孝高(黒田官兵衛)の家臣栗山利安は溝口で戦っている(黒田家臣伝)。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)によると、木下家定は「ミその口村」のうち高三五石の知行を認められている。慶長国絵図に村名がみえ、その東に「北かい市」が記される。

溝口村
みぞぐちむら

[現在地名]二見町溝口

山田原やまだはら村の北にあり、同村の枝郷であった。「神鳳鈔」に「塩合御厨二斗、九月、同在新田」とある地である。塩合(塩会)は貞応三年(一二二四)三月二五日付の某田畠売券案(御塩殿文書)に「二見郷塩会村」、正元二年(一二六〇)二月七日付大中臣吉平治田売券(同文書)に「二見郷内塩会村」と記されている。天文年中(一五三二―五五)に国司北畠材親が山田・宇治を襲撃したが、その際当村の池村隼人が討死したという。

寛永一〇年(一六三三)親村の山田原とともに神領復帰後は宇治会合に属した。

溝口村
みぞぐちむら

[現在地名]三田市溝口

大畑おおはた村の西、長坂ながさか町の南、武庫むこ川支流相野あいの川右岸の河岸段丘地に立地する。もと下相野村のうち。御領分御高付覚(九鬼家文書)によれば、天明二年(一七八二)下相野村から分離し、溝口村の高九七石余。しかし以降も郷帳類では下相野村一村で高付されている。明治初年に分村。南部の高台にある浄土真宗本願寺派源正げんしよう寺は文明一三年(一四八一)開基し、初め禅宗であったが、安永四年(一七七五)に改宗したという(本庄村誌)

溝口村
みぞぐちむら

[現在地名]神栖町溝口

神之ごうの池の沿岸にあり、東は奥野谷おくのや村。天正一九年(一五九一)東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「六百七十三石九斗六升 みそくち」とある。江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高は六〇〇石余で、旗本土屋・村上・金森各氏が支配した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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