デジタル大辞泉
「社」の意味・読み・例文・類語
や‐しろ【社】
《「屋代」の意。「代」は神を祭るために地を清めた場所》
1 神を祭る建物。神社。
2 神の降臨する場所。土地を清めて祭壇を設け、神を祭った場所。
「春日野に粟まけりせば鹿待ちに継ぎて行かましを―し恨めし」〈万・四〇五〉
[類語]神社・神宮・大社・稲荷・八幡・鎮守・本社・摂社・末社・祠・宮・祠堂
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しゃ【社】
- [ 1 ] 〘 名詞 〙
- ① 中国で、土地の守護神。また、その神をまつって豊年を祈る祭。
- [初出の実例]「社 シャ 土地之主也」(出典:文明本節用集(室町中))
- [その他の文献]〔春秋左伝‐荘公二三年〕
- ② 神をまつる殿舎。やしろ。ほこら。神社。祠。
- [初出の実例]「修レ社 シャヲシュス」(出典:文明本節用集(室町中))
- ③ 中国で、古く、法制に定めた、土地の守護神を中心とする二五家の称。〔説文〕
- ④ 一つの仕事や一定の目的のために同志が集まって結成された団体。結社。講。
- [初出の実例]「結レ社 シャヲムスブ」(出典:文明本節用集(室町中))
- 「予先人と社を結て、月に両三度づつ会集せらる」(出典:随筆・孔雀楼筆記(1768)四)
- [その他の文献]〔漢書‐五行志〕
- ⑤ もと、日本が統治していた頃の台湾の最下級の行政区画。〔台湾街庄社に区長及区書記設置制(明治四二年)(1909)〕
- ⑥ 「かいしゃ(会社)」「しんぶんしゃ(新聞社)」などの略。
- [初出の実例]「我社の探訪者」(出典:花柳春話(1878‐79)〈織田純一郎訳〉八)
- 「実はね、けふ社(シャ)でもって赤面しちまったんですがね」(出典:野分(1907)〈夏目漱石〉一〇)
- [ 2 ] 〘 接尾語 〙 神社、会社など、「社」のつくものを数えるのに用いる。
- [初出の実例]「甲斐、信濃、越中、但馬、土左等国一十九社、始入二祈年幣帛例一」(出典:続日本紀‐慶雲三年(706)二月庚子)
- 「原糖を原料として製造する大手筋の業者は日本に数社あるが」(出典:ある小官僚の抹殺(1958)〈松本清張〉一)
や‐しろ【社】
- 〘 名詞 〙 ( 「屋(や)代(しろ)」の意 )
- ① 神の来臨するところ。古くは地を清めて壇を設けて神をまつる一定の場所をいった。
- [初出の実例]「天神(あまつかみ)の地祇(くにつかみ)の社(ヤシロ)を定(さた)め奉りたまひき」(出典:古事記(712)中(兼永本訓))
- ② 神をまつる殿舎。神社。〔十巻本和名抄(934頃)〕
- [初出の実例]「やしろは布留のやしろ。生田のやしろ」(出典:枕草子(10C終)二四三)
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普及版 字通
「社」の読み・字形・画数・意味
社
常用漢字 7画
(旧字)
人名用漢字 8画
[字音] シャ
[字訓] やしろ・くにつかみ
[説文解字]
[甲骨文]
[金文]
[字形] 形声
声符は土(ど)。土はの初文。卜文・金文の字形は土主の形。それに酒などを(そそ)ぐ形に作るものがある。〔説文〕一上に「地なり」とあり、産土神(うぶすながみ)をいう。山川叢林の地はすべて神の住むところで、そこに社樹を植えて祀った。また〔周礼、地官、大司徒〕に「其の稷(しやしよく)の(ゐ)(社壇とその封界)を設けて、之れが田を樹う。各其の野の宜しきの木を以てす。に以て其のと其の野とに名づく」とあり、いわゆる封建の礼をいう。亡国の社には、これに屋を加える。各地に土主があり、その地で儀礼を行うときは、まずその土主に酒などをいで祀る。これを興(きよう)という。〔礼記、楽記〕に「上下のに興す」とは、上神には降、下神には興の礼をする意。また〔周礼、地官、舞師〕に「小祭祀には興せず」とあり、重要な祭祀のときには地霊に興舞したことが知られる。社の古い形態はモンゴルのオボに似ており、社主の下部を盛り土で堅めた。そこに野鼠が棲むので、君側の奸を社鼠という。水や火を以て攻めがたいからである。
[訓義]
1. やしろ、くにつかみ、うぶすながみを祀る。
2. やしろを中心とした組織、結社、地域社会。周制では二十五家を一社とする。
3. 社の祭の日、社日、立春・立秋ののち第五の戊の日。
4. 江・淮の地では母をいう。
[古辞書の訓]
〔新字鏡〕 后土なり、也志呂(やしろ)〔名義抄〕 ヤシロ・イノル・ヲツ・モリ 〔字鏡〕 ヤシロ・フサク・ウヤマフ・モリ 〔字鏡集〕 イノル・ヲツ・ウカカフ・ヤシロ・ユタカナリ・フセク
[語系]
zjya、土thaは声近く、古くは土を社の意に用いた。卜辞にみえる亳(はく)土・唐土は亳社・唐社の意。また〔説文〕二上に「吐は寫なり」、〔広雅、釈言〕に「土は瀉なり」とあり、吐tha、寫(写)・瀉syaも声義に関係があるようである。
[熟語]
社▶・社燕▶・社翁▶・社火▶・社会▶・社学▶・社鬼▶・社客▶・社宮▶・社君▶・社公▶・社祭▶・社宰▶・社司▶・社祀▶・社祠▶・社日▶・社主▶・社酒▶・社樹▶・社場▶・社稷▶・社神▶・社人▶・社正▶・社銭▶・社鼠▶・社倉▶・社叢▶・社壇▶・社長▶・社肉▶・社婆▶・社伯▶・社飯▶・社▶・社木▶・社民▶・社友▶・社林▶
[下接語]
殷社・王社・会社・官社・観社・宜社・郷社・社・吟社・軍社・結社・公社・侯社・郊社・宰社・祀社・寺社・酒社・秋社・出社・春社・書社・商社・神社・薦社・宗社・村社・大社・遅社・冢社・田社・社・入社・亳社・社・社・方社・報社・茅社・民社・里社・類社・蓮社
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社 (しゃ)
shè
中国古来の土地神,あるいはそれをまつる集団,集落をいう。その起源については諸説があって定まらないが,おおよそ原始集団の中心にある聖なる場所,その集団の保護神が祖先神であったといわれる。社は樹木,石,封土などを神のやどる標識とし,集団の人々は事あるごとにそこに集まって団結と親睦を図った。すなわち日食のような天変地異,大水などの災害が起きると,人々は社にいけにえを供え鼓を打って祈りを捧げた。戦いになると,出陣に当たって社に集合して,祭肉の分配にあずかり,いけにえの血を武器にぬって戦勝を祈願した。また車に社主(社神の位牌)を乗せて出征し,帰還すると俘虜を献じて戦の報告をした。社はまた集団内のもめごとを調停したり,国の法令を社人に伝達する場所でもあった。農業が発達すると,春には五穀豊穣を祈り,秋には収穫に感謝する〈春秋二社〉の祭祀が,社にとっての重要な行事となった。のちに農業神の稷(しよく)と合わせて社稷といい,祖先の宗廟の祭りと並ぶ国家の大切な祭儀とされた。
社の規模は《周礼(しゆらい)》に1社25家と記すが,100家,2500家といったものもあって一定しない。先秦には国家の太社,王社のほかに,諸侯の国社,侯社もあったが,漢代には滅び,代わって行政区画の県,郷,里にそれぞれ社が置かれ,里社の下には5家,10家といった小さな私社もあった。こうした郷村の社は,その後の社会変動にかかわりなく,ながく存続した。社の最大の行事である春秋二社のときには,村民はこぞって祭りの場所に集まり,祭祀が終わると,一同はお下がりの社飯酒肉を会食して旧交をあたため,ときには余興に歌舞演劇が行われた。この日には,遠くに出ている子弟も,里帰りして両親を見舞うのがならわしであったといわれる。
敦煌千仏洞の一室から発見されたいわゆる〈敦煌文書〉のなかに多数の社文書があり,この地域での9~10世紀の状況をうかがうことができる。それらの文書によると,社ごとに,結社の目的と運営方法,罰則を定めた〈社条〉がつくられた。社には社長,社官,録事の〈三官〉がいて社を統率し,社に関するすべての事はこの三官の裁断によった。社の行事の第1はここでも春秋二社の宴会であり,開催に先立って,録事から社人たちに,その日時と集合場所を知らせる〈社司転帖〉が回された。これと並ぶ重要な事業は〈逐吉追凶〉つまり慶弔時の助け合いであった。ことに社内に不幸があると,録事は早速に回状を出して通知し,知らせをうけた社人たちは,真夜中であってもただちに喪家にかけつけて葬儀の準備をしなければならなかった。敦煌は仏教都市であったから,当然,社は諸種の仏教行事に参加し法会の援助を行った。それには,三長月斎(1月,5月,7月の各1日に仏寺で行う法会),1月15日の燃灯会,2月8日の釈迦の降誕を祝う行像会,7月15日の盂蘭盆(うらぼん)会,仏像の印を紙や布に押す印沙仏会などがあり,蘭若(寺院)や仏窟の修理造営を援助することもあった。社に入るのは任意であったが,いったん入社すれば社条の規則を守ることが強く求められ,所定の時間に遅れたり,不参したりすると重く罰せられた。社人には官人や僧侶を含み,ほかに女人社や同業者の社などもあった。このような社の組織と活動とは,当時の中国内地でも同様に行われたとみられる。
宋代には,河北の辺境に弓箭社とよばれる自衛団が結ばれ,没命社,亡命社,覇王社などの〈無頼漢〉の結社が各地にみられた。こうした郷村の自治的な組織は,しばしば地方行政に利用された。隋代では,社ごとに義倉を置き,収穫に応じて穀物を蓄えて飢饉に備える制度が始められ,これを社倉ともいった。また元の世祖のとき,全国に社制が施かれた。これは,およそ50家で1社をつくり,社内の農事に明るい高年者を社長にえらんで,社を統率させた。社長は,社人の農耕を督励し,水利灌漑の設備を充実し,蝗の駆除,副業の奨励,荒地の開墾などを行うとともに,社学を設けて社人の教化にも当たった。このように元代の社制は,勧農と教化とをおもな任務とするかなり自治的な郷村組織であった。ただし社制は都市部でも施行され,このほうは遊手無頼の徒を教戒して,治安をよくするのを任務とした。もっとも郷村でも,元末になって反乱があいつぎ,社会不安が増大すると,勧農よりは治安維持の方が重んじられるようになった。この制度は元が滅ぶと廃止されたが,明代でも社の名称は行政区画として残るものがあり,社会は清代まで行われ,清末にはこれが地方自衛組織の中心機関に変わるものが多かった。
一方,宋代以後,文人のあいだに詩文を作り批評しあう詩社の結成がさかんになり,明末の復社のように,それが政治結社に発展することもあった。仏教,道教などの信仰団体のほか,芸人たちの職能別の組織も社とか会との名称がつけられ,もと社日の祭りを指した〈社会〉の語が,宋代にはこれらの団体をも指すようになった。
執筆者:竺沙 雅章
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社
やしろ
兵庫県南東部、加東郡(かとうぐん)にあった旧町名(社町(ちょう))。現在は加東市の中央部を占める一地区。1912年(大正1)町制施行。1955年(昭和30)社町は福田、米田(よねだ)、上福田、鴨川(かもがわ)の4村と合併。2006年(平成18)滝野(たきの)、東条(とうじょう)の2町と合併、市制施行して加東市となる。国道175号・372号、中国自動車道が通じ、滝野社インターチェンジがある。西端を加古川が流れ、中位・低位段丘面の社台地は姫路平野の北端にあたり、穀倉地帯である。東部は第三紀の丘陵、北東部は山地で占められる。中心地区の社は式内社佐保神社の門前町として発達し、地名もそれに由来する。また京都から西国へ通じる丹波(たんば)街道の宿場町、近隣の市場町でもあった。嬉野(うれしの)の丘陵地は県の学園都市構想により国立兵庫教育大学、県立嬉野台生涯教育センター、県立教育研修所などが置かれた。また、社サイエンスパーク(工業団地)にはエレクトロニクスなどの先端企業が進出している。古社寺が多く、清水(きよみず)寺は西国三十三所第25番札所、朝光寺(ちょうこうじ)は7世紀の開基で、本堂(国宝)のほか文化財も多い。上鴨川住吉神社(すみよしじんじゃ)の神事舞は中世の田楽(でんがく)、能舞を伝え、国の重要無形民俗文化財。
[二木敏篤]
『『社町史』全5巻(2001~ ・社町)』
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社
やしろ
兵庫県中南部,加東市中・北部を占める旧町域。加古川中流東岸にある。1912年町制。1955年福田村,米田村,上福田村,鴨川村の 4村と合体。2006年滝野町,東条町の 2町と合体して加東市となった。中心集落の社は式内社の住吉神社,佐保神社の門前町で,地名もそれに由来。官公庁の出先機関が集中し,東播地方の行政中心地。県立教育研修所,国立兵庫教育大学,県立生涯教育センターがある。周辺は灘の酒米の産地。米田の朝光寺本堂は国宝。上鴨川の清水寺は道法上人開基,西国三十三所第25番札所で眺望に優れる。住吉神社の神事舞(→宮座神事)は国指定重要無形民俗文化財。北東の丘陵地帯一帯は清水東条湖立杭県立自然公園に属する。
社
しゃ
she
中国で,ある神格的シンボルを中核として団結した集合体をさす。「社」という語は,大地の生産力を神格化したものを意味しているが,実際には,その土地に生えている大木や石をシンボルとして設定した。社の成立の理由には諸説あって未詳であるが,その存在は早くも殷代にあったろうと想定されている。本質的には民間の集りであったが,為政者が自己の利益のためにその集りを利用することもあった。
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社[町]【やしろ】
兵庫県中南部,加古川中流左岸を占める加東郡の旧町。中国自動車道が通じる。国道372号線に沿う主集落は佐保神社の鳥居前町,丹波街道の宿場町として発達。古くからの酒造米産地で,観光農園も盛ん。西国三十三所25番札所清水寺,兵庫教育大学がある。2006年3月,加東郡滝野町,東条町と合併し市制,加東市となる。87.40km2。2万1004人(2003)。
社【やしろ】
天神地祇(ちぎ)を鎮祭する殿舎。祠も〈やしろ〉の一つであるが,〈ほこら〉と訓じ,小社をさす。語源的には〈屋代〉であり,斎場をもって殿舎に代える意。→神社
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の社の言及
【面】より
…李朝初期に郡を東西南北4面に分けたことが〈面〉という名称の始めとみられるが,行政区画となったのは16世紀と推定される。平安道,黄海道では〈坊〉,咸鏡道では〈社〉と呼ばれた。李朝時代の面は政府の命令伝達,徴税事務などの単位で,行政村としての性格が強い。…
【社祠】より
…后土(こうど)と同様の意でも用いられる。ヤシロとは,本来屋代(やしろ)すなわちミヤ(御屋),宮殿に対してそのかわりの斎庭(ゆにわ),斎場のことで,地を祓い清めただけの場のこと,またそれより少し進んでわずかに人家の形をしたのみの建物のことをいい,のち社の字をあて,神をまつる殿舎をいうようになったものとみられている。ホコラはホクラ(神庫,宝庫,宝蔵)より転じた語で,神をまつる殿舎のこと。…
【神社】より
…神道の信仰にもとづいて,神々をまつるために建てられた建物,もしくは施設を総称していう。やしろ(社),ほこら(祠)。一般には,神が鎮座する本殿,神を礼拝しさまざまな儀礼を行う拝殿,本殿・拝殿などを囲む瑞垣(みずがき),神域への門に相当する鳥居などからなり,そのほかに神宝を納める宝殿,参拝者が心身を浄めるための手水舎(ちようずや),神に奉納する神楽(かぐら)を奏する神楽殿,神官の執務のための社務所,神苑などさまざまな施設を併せている。…
【ギルド】より
…一般的には中・近世ヨーロッパにおける商工業者の職種ごとの仲間団体をさすが,このような同職仲間的な団体は,広く前近代の日本,中国,イスラム社会,インドにもみられる。ドイツ語ではギルドGilde,ツンフトZunft,インヌングInnung,フランス語ではコンパニオナージュcompagnonnage,イタリア語ではアルテarteとよばれる。…
【社倉】より
…中国や朝鮮,日本で凶年など非常のときに窮境を救うための米などを貯蔵しておく米倉。隋代にはじまった[義倉]は村鎮に設置され,無償で配給されたが,管理は一種の自治団体である社が行ったので,別に社倉と呼ばれた。宋代になって最も発達し,村落が管理する社倉と州県官が管理する義倉とがはっきり区別された。…
【社日】より
…中国において社(土地神)を祭る祝日をいう。一般に春秋2回行われるが,その日は時代によって異なる。…
【村】より
…〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。ましてやその人口の多寡,村境域の構造,集落の形態,耕地のあり方,さらにはその法的な性格などということになると,〈むら〉とはこういうものだということを一律に規定することは,はなはだ困難である。…
※「社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」