江戸中期の儒学者。折衷(せっちゅう)学派。名は世璠(せばん)、字(あざな)は叔瑟(しゅくしつ)、通称は東造(とうぞう)。兼山はその号。上野(こうずけ)国(群馬県)の人。江戸に出て、徂徠(そらい)学派の鵜殿士寧(うどのしねい)(1710―1774)に学び、徂徠直門の宇佐美灊水(うさみしんすい)(1710―1776)の養子となったが、のち徂徠学に疑問を抱くようになり養家を去った。やがて中国唐宋(とうそう)諸家の説を折衷し、修辞よりも経義を重んじる一家言を打ち立て、井上金峨(いのうえきんが)と併称される折衷学の提唱者となった。「四書五経」に古注で訓点をつけた『山子点(さんしてん)』を刊行して世に知られ、その学問は「山子学」とよばれた。晩年、尾張(おわり)藩の『群書治要』校刻に関与した。『山子垂統』(1775)『山子遺文』『学庸解廃疾(がくようかいはいしつ)』『古文孝経標注』『論語一貫』など多数の著作がある。
[衣笠安喜 2016年5月19日]
江戸中期の儒者。折衷学派。名は世璠,字は叔瑟,通称は東造,兼山は号。上野国の農家に生まれる。17歳のとき江戸に出て徂徠学派の鵜殿士寧に学び,さらにその師服部南郭の門に入る。同門の秋山玉山の帰国に同行して熊本に赴き,藩校時習館の儒員を6年間務めた。やがて京都,大坂を経て江戸に帰り,士寧の塾に寄寓,ついで徂徠の高弟宇佐美灊水(しんすい)に見込まれてその養子となったが,のち徂徠学に疑問を抱くようになり,宇佐美家を去った。その後旗本遠山修理の屋敷に身を寄せて門弟を教授,徂徠学を批判して漢宋諸家の説を折衷する一家の見を立て,折衷学の提唱者として井上金峨と並称された。晩年,尾張藩の《群書治要》の校刻に参与し,中途で病没した。四書五経に山子点と呼ばれる訓点を付けて刊行したほか,著書に《山子垂統》《山子遺文》《論語一貫》《学庸解廃疾》などがある。門人も多く,一門を山子学と称えた。
執筆者:衣笠 安喜
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