象牙を材料とした彫刻。「げぼり」ともいう。彫刻に象牙を用いることは江戸末期に始まり、根付(ねつけ)などに用いられた。明治時代に入ると、その細密な技巧が外国人に喜ばれて、日本の特技とまで称され、一時は「牙彫にあらざれば彫刻にあらず」(高村光雲)とまでいわれる状態であった。しかし材の大きさに制限され、根付や置物風の愛玩(あいがん)品に限られているのに飽き足らず、作品としての格調を高め、大きなものをつくる努力がなされるに至った。そして、部材を組み合わせることによって旭玉山(あさひぎょくざん)(1843―1923)が1901年(明治34)に美術協会展に出品した『官女像』のような高さ59センチメートルの大作も生まれはしたが、こうしたものをつくることは、象牙を材料とする必然性を失うこととなり、時代が落ち着くにしたがって、一時は牙彫に飛びついた彫刻家たちも本来の動きに返り、牙彫は衰えていった。石川光明(こうめい)をはじめ、明治の有名な彫刻家には牙彫家出身の人が多い。
[佐藤昭夫]
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[西洋]
先史時代以来,マンモスの牙の表面に狩りの場面を刻んだり,豊穣の願いをこめて彫られた象牙女性像が制作された(〈レスピューグのビーナス像〉,サン・ジェルマン・アン・レー美術館)。古代エジプトでは,豪華な家具や装身具などに象牙が用いられ,おそらくエジプトの影響下に古代フェニキアでは,シリア,小アジア,アフリカからもたらされた象牙を用いた完成度の高い象牙彫が生み出された(〈ニムルドの家具の断片〉,大英博物館)。古代ギリシアでも,家具や装身具に象牙を用い,同様に巨大な神々の像も象牙で制作された(フェイディアス《アテナ・パルテノス》など)。…
…彼らは文明開化の欧化熱や,廃仏毀釈(きしやく)の中で神社仏閣の需要がなくなり,また大名の保護も失われて危機に陥った。ただ精緻な象牙彫刻(牙彫(げちよう))は貿易品として迎えられて活路を見いだし,石川光明(1852‐1913),旭玉山(1848‐1923),島村俊明(しゆんめい)(1853‐96)のような名人が出る。 一方,工部美術学校の彫刻教師としてV.ラグーザが1875年に迎えられ,本格的な洋風彫塑を初めて伝える。…
※「牙彫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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