牛込村(読み)うしごめむら

日本歴史地名大系 「牛込村」の解説

牛込村
うしごめむら

[現在地名]白子町牛込

剃金そりがね村の北東に位置し、浜方に納屋集落がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二四〇石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では真亀組に属し、旗本加藤領二四〇石余で、同領は幕末までほぼ変わらない。元禄郷帳では高二五五石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高三一三石余で家数八〇、加藤領のほか幕府領(旧高旧領取調帳では高七二石余)。天明八年(一七八八)の村明細帳(牧野家文書)によれば、年貢米浜野はまの村河岸(現千葉市中央区)から津出しした。


牛込村
うしごめむら

[現在地名]金井町いずみ 牛込

北は妙見みようけん山麓に続く国仲くになか丘陵上にある。西は市野沢いちのさわ(現佐和田町)、東は藤津とうつ川を挟んで上中興かみなかおく村、南は和泉いずみ村。和泉村の入会集落で、和泉四ヵ村の一。牛籠うしごめ村とも記す。村名は応永二九年(一四二二)本間末長が足利義持により和泉保内の地を安堵されたとき、当地に牛込場があったことによると伝える(金沢村誌稿本)。現在高橋姓が多いが、中世高橋利右衛門家が牛込殿として村殿をつとめていたことによる。

慶長一〇年(一六〇五)の牛籠村辰御年貢勘定(泉区有)によると、定納高は九八石一斗余。元禄七年(一六九四)検地帳(同区有)には、河原田かわはらだ(現佐和田町)の六兵衛・新兵衛や相川の常徳あいかわのじようとく寺などの入作地がみられる。


牛込村
うしごめむら

市谷いちがや村の北東に位置し、中世の牛込郷を継承する。江戸時代に入ると市谷村と同様に江戸の市街拡大に伴って、大半の地が町地・武家屋敷地・寺社境内地に転じた。また、のちに早稲田村中里なかざと村などが分れ、江戸後期にはほとんど耕地はなかった。田園簿に村名がみえ、田高三三〇石余・畑高一四〇石余、うち牛込済松さいしよう寺を創建した祖心(素心)知行が三〇五石余、幕府領が一六五石余、ほかに牛込宗参そうさん寺領高一〇石・同行元ぎようげん寺領高四石。元禄郷帳三八四石余。天保郷帳では牛込町とみえ、高六七六石余、ただしこの高には分村した早稲田村・中里村の高も含まれていたと思われる。


牛込村
うしごめむら

[現在地名]木更津市牛込

中島なかじま村の北東に位置し、北方は海に面する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二五〇石。寛永三年(一六二六)田畑屋敷高辻帳によると高二五六石余、田一九町一反余・畑屋敷二一町五反余、塩三八七俵定納、銭永二一二文・舟役永二〇〇文。正保国絵図でも同高であるが、元禄郷帳では高三九五石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数八〇で、与力給知。慶応二年(一八六六)の組合村々書上によれば与力給知分の本田畑高二五六石余、塩場高一三五石余・高二石一斗・舟高二石・蔵波くらなみ村山高二九石余・牛袋野うしぶくろの高四石余、代宿だいじゆく(現袖ケ浦市)高九石余を含め高四三八石余。


牛込村
うしごめむら

[現在地名]美浦村牛込

根火ねび村の北東に位置し、霞ヶ浦に面する。中世は信太しだ庄に属し、江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高は一五八石余。幕末は旗本安部氏領一三二石余、飯室氏領七六石余(各村旧高簿)漁業も行われ、元禄一六年(一七〇三)九月一六日の霞ケ浦四十八津返答口上書(舟串家文書)に「牛込村佐右衛門」とみえ、享保一一年(一七二六)一一月の霞ケ浦浦方議定書(同文書)にも村名がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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