狩野山雪(読み)カノウサンセツ

デジタル大辞泉 「狩野山雪」の意味・読み・例文・類語

かのう‐さんせつ【狩野山雪】

[1590~1651]江戸前期の画家。肥前の人。名は光家。通称、平四郎。狩野山楽の門弟で、のち養子となる。理知的な構成の装飾画に独自の造形性を示した。

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精選版 日本国語大辞典 「狩野山雪」の意味・読み・例文・類語

かのう‐さんせつ【狩野山雪】

  1. 江戸前期の画家。肥前の人。名は平四郎。別号蛇足軒、桃源子。狩野山楽に学び、その養子となり家督を継ぐ。画風は山楽より繊細で装飾性に富む。法橋に叙せられた。花鳥画を得意とし、山楽との合作と伝えられる京都妙心寺天球院金碧障壁画はとくに有名。天正一八~慶安四年(一五九〇‐一六五一

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朝日日本歴史人物事典 「狩野山雪」の解説

狩野山雪

没年:慶安4.3.12(1651.5.1)
生年:天正17(1589)
桃山・江戸初期の画家。天正18(1590)年生まれとも。名は光家,別号は蛇足軒,桃源子,松柏山人など。通称は平四郎,縫殿助。肥前(長崎県)に生まれ,一家で大坂に移る。16歳のとき父千賀道元が死に,その後叔父の世話で大坂に住んでいた狩野山楽の門人となる。やがて師にその画才と人柄を見こまれ,山楽の娘竹の婿となり,狩野氏を名乗り跡を継いだ。山楽の指導のもと研鑽を積んだ山雪は,養父の障壁画制作に参加,寛永6(1629)年ごろの「当麻寺縁起絵巻」(熨斗家蔵)の制作に山楽と共に名を連ねている。同8年に建てられた妙心寺天球院の障壁画は,山楽との共同制作であるが,70歳代であった高齢の山楽は後見となり,43歳の山雪が中心となった可能性が高い。天球院は池田信輝の3女天球院が建てたということもあり,優美にして繊細な金碧画が正面にすえられた。山雪は山楽の協力のもとに「籬に草花図」「竹に虎図」「花鳥図」などを制作,知的構成と新鮮な意匠性が結合する独自の障壁画様式を完成させた。同9年林羅山の依頼で,林氏学問所先聖殿のために「歴聖大儒像」を制作,同14年京都清水寺の「繋馬図絵馬」を描く。正保4(1647)年九条家の命により東福寺蔵の伝明兆筆「三十三観音像」の中の2幅を補作して,その功により法橋に叙せられる。同年泉涌寺舎利殿の天井画雲竜図を制作。その他独特の形態感覚を示す「寒山拾得図」や「長恨歌図巻」があるが,中でも「雪汀水禽図屏風」(河本家蔵)は山雪の傑作であるとともに,近世絵画の名作のひとつである。 山雪は他方,歴史や儒学を好む学究肌の人で,『図絵宝鑑名録』『源氏物語図画記』『武陵離記』『画談』などの著述があったという。わが国の画家の伝記をまとめることを思いたち,草稿を書いたが生前には上梓されず,子の狩野永納がこれを完成して『本朝画史』として刊行した。晩年何らかの罪で獄につながれたらしく,獄中から永納にあてた手紙が残っている。63歳で没し,京都の泉涌寺に葬られた。<参考文献>土居次義『日本美術絵画全集12/狩野山楽・山雪』,辻惟雄奇想系譜』,大和文華館『狩野山雪展/図録

(河野元昭)

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改訂新版 世界大百科事典 「狩野山雪」の意味・わかりやすい解説

狩野山雪 (かのうさんせつ)
生没年:1590-1651(天正18-慶安4)

江戸初期の画家。肥前国出身。狩野山楽の養子となり,山楽の影響を受けながら,しばしば奇矯とも評される独自の画風を形成した。蛇足軒,桃源子など一風変わった文人風の雅号があるが,これは山雪の学究的な性向の一面を示すものである。ちなみに子の永納がのちに上梓した画人伝《本朝画史》は,山雪の草稿をもとに編纂されたものである。また,林羅山の依頼によって《歴世大儒像》(1632。東京国立博物館,筑波大学付属図書館)を制作したり,《藤原惺窩閑居図》(1639。根津美術館)を描くなど,儒学者との交遊も知られている。しかしこれらの水墨画作品が多少窮屈な印象を受けるのに対し,本領は金碧の濃彩画にある。妙心寺天球院障壁画(1631)の理知的で幾何学的な構成,旧妙心寺天祥院襖《老梅図》(メトロポリタン美術館)の異様な巨樹表現などに,彼の画風の特徴は遺憾なく発揮されている。また,代表作《雪汀水禽図屛風》は,金銀をさまざまに駆使した工芸的手法によりながら,静謐で詩的な空間をつくりだしている。寛永期の感性を代表する最も重要な画家の一人である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「狩野山雪」の意味・わかりやすい解説

狩野山雪
かのうさんせつ
(1589/90―1651)

桃山末期から江戸初期の京(きょう)狩野派を代表する画人。初め狩野山楽の門人であったが、のちにその娘婿となり、家督を相続した。名は初め彦三、のちに平四郎、また縫殿助(ぬいのすけ)と称した。山雪のほかに桃源子、蛇足軒(だそくけん)の号がある。山楽の装飾的画風を受け継ぎつつも、これをいっそう徹底させ、理知的で明快な画面構成に、ときに奇矯とも評される独自の造形性をみせている。妙心寺天球院障壁画(しょうへきが)制作(1631)に指導的役割を果たしたほか、代表作に『雪汀水禽図屏風(せっていすいきんびょうぶ)』、旧天祥院襖絵(ふすまえ)『老梅図』(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)などがある。また、わが国最初の本格的画伝『本朝画史』は、山雪の草稿をその息子永納(えいのう)(1634―1700)がまとめたもので、画業とは別に山雪の特筆すべき業績である。慶安(けいあん)4年3月12日没。泉涌寺(せんにゅうじ)に葬られた。

[榊原 悟]

『土居次義著『日本の美術172 山楽と山雪』(1980・至文堂)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「狩野山雪」の意味・わかりやすい解説

狩野山雪
かのうさんせつ

[生]天正18(1590).肥前
[没]慶安4(1651).3.12. 京都
桃山時代後期~江戸時代初期の京狩野の画家。本姓千賀氏,幼名彦三。狩野山楽に師事,その女婿となって狩野平四郎と名のり,のち山楽の嗣子光教の死で家督を継いだ。縫殿助 (ぬいのすけ) と称し,山雪,蛇足軒,桃源子,松柏山人などと号する。寛永年間,妙心寺天球院障壁画,上野忍岡先聖殿『歴聖大儒像』,清水寺『繋馬図』絵馬 (各現存) などを制作。東福寺の明兆筆『三十三観音』の2幅を補作 (1647) して法橋に昇叙。画風は師の山楽に比べ装飾性が強く幾何学的な構図法を好んだ。また学者的素養をもち,儒学者と親交も深く,嗣子永納が著わした『本朝画史』も山雪の草稿を基礎とする。遺作には上記のほかに『雪汀水禽図屏風』,『老梅図』襖絵 (天祥院旧蔵) ,『雲竜図』天井画 (泉涌寺舎利殿) ,『蘭亭曲水図屏風』 (随心院) など。

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百科事典マイペディア 「狩野山雪」の意味・わかりやすい解説

狩野山雪【かのうさんせつ】

江戸初期の狩野派の画家。肥前の人。大坂へ出て狩野山楽に入門,画才を認められて養子となる。画風は師にあまり似ず,一種の冷徹,奇矯さを特色とする。子の永納は《本朝画史》を編集。代表作《雪汀水禽図屏風》,天球院の襖絵(ふすまえ)《梅に山鳥図》。
→関連項目瀟湘八景

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「狩野山雪」の解説

狩野山雪 かのう-さんせつ

1589-1651 江戸時代前期の画家。
天正(てんしょう)17年生まれ。狩野山楽にまなび,婿養子となり,京狩野家をつぐ。寛永8年ごろ山楽とともに妙心寺天球院の障壁画を制作。正保(しょうほ)4年東福寺の「三十三観音図」を補作,法橋(ほっきょう)の称号をあたえられた。慶安4年3月12日死去。63歳。肥前出身。本姓は千賀。名は光家。通称は平四郎,縫殿助。別号に蛇足軒。作品に「雪汀水禽(せっていすいきん)図」「寒山拾得図」など。

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