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猛安・謀克 もうあん・ぼうこくMeng-an Mou-ke; Mêng-an Mou-k`o

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

猛安・謀克
もうあん・ぼうこく
Meng-an Mou-ke; Mêng-an Mou-k`o

中国,の軍事・行政制度,また官名。女真語猛安千戸長,謀克は族長の意。建国前に女真の間に存在した部族的軍事制度の猛安・謀克を金建国の前年 (1114) に太祖 (→ワンヤンアクダ〈完顔阿骨打〉 ) が改正整備し,行政機能も与えた。行政制度としては 300戸を1謀克部,10謀克部を1猛安部とし,謀克部長の謀克,猛安部長の猛安を世襲職とした。軍事制度としては1謀克部から約 100人の兵を徴し,1謀克軍を編成,10謀克が1団となり1猛安軍を編成,その長も謀克,猛安であった。平時には生業に従事させ,戦時には兵として働かせた。金代初め,この制度は支配下の国民すべてに適用されたが,州県制度によって漢人,渤海人などを支配するようになると,もっぱら女真人,契丹人に限られた。皇統2 (42) 年宋との和議が成って,治安維持のために多数の女真人を猛安・謀克の組織のまま,北満の地より華北の地へ移した。漢人よりも租税その他で優遇されたが,この猛安・謀克に組織された女真人は漢文明に染まって次第に貧窮化し,その救済のために漢人に不利になる処置が下され,金朝に対する漢人の反感を強めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

猛安・謀克
もうあんぼうこく

中国、金王朝(1115~1234)の軍事および行政組織の単位、および統治者の呼称。金建国前の女真各部の首長は、平時には孛菫(ぼっきん)とよばれたが、戦時には軍事上の指導者となり、猛安または謀克とよばれた。猛安は千を意味する女真語ming-kan、謀克は里長や郷里を意味するmukeの音訳といわれる。金の太祖阿骨打(アクダ)は寧江(ねいこう)州の戦いののち、女真に古くからあった猛安・謀克制を金の兵制と定め、300戸を1謀克とし、1謀克から選ばれた兵で1謀克軍を編成し、10謀克をもって1猛安を組織した。猛安軍および謀克軍の指揮者も猛安・謀克とよばれた。金国の領土の拡大とともに東京道、上京道、中京道の女真人、奚(けい)人、契丹(きったん)人、渤海(ぼっかい)人などにも猛安・謀克制が施行された。太宗(在位1123~35)の末年から煕宗(きそう)(在位1135~49)の時代、多くの猛安・謀克戸が集団をなして華北の新占領地に移住させられた。彼らには土地と牛具が与えられ課税額も少なく優遇を受けたが、しだいに奢侈(しゃし)にふけり、生産から遊離して徒食し貧困化し、漢人との通婚も許されて血の純粋さも失われ弱体化した。1234年、金国がモンゴル軍に滅ぼされるとともに猛安・謀克制も崩壊した。[河内良弘]
『三上次男著『金史研究 一』(1972・中央公論美術出版)』

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