瀬戸焼(読み)せとやき

精選版 日本国語大辞典 「瀬戸焼」の意味・読み・例文・類語

せと‐やき【瀬戸焼】

〘名〙 愛知県瀬戸市およびその付近から産する陶磁器の称。鎌倉中期から中国陶器の器形を模倣した施釉陶器を量産し、その後は仏花器や茶器なども量産した。磁器の製造は、江戸時代、享和・文化(一八〇一‐一八)のころに加藤民吉父子が肥前有田に赴き、新製染付焼の製法を学んだのに始まる。旧陶器を本業というのに対して、これを新製といい、本業に代わって主流を占めた。せともの。せと。
※利休客之次第(1587)「但せとやき日本物ならば、客より何と手にとり見申度と云て、扨手拭にて手をのごひ、右のごとくに見申也」

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デジタル大辞泉 「瀬戸焼」の意味・読み・例文・類語

せと‐やき【瀬戸焼】

愛知県瀬戸市およびその付近で作られる焼き物の総称。鎌倉時代、加藤景正かとうかげまさが、から施釉陶器の技法を伝えたのが創始とされる。室町末期ごろまでのものは古瀬戸とよばれ、主に唐物からものを模した茶入で知られる。桃山時代から江戸初期にかけては、茶の湯の隆盛に伴って瀬戸黒志野織部黄瀬戸などの茶器が多く焼かれたほか、日用雑器も作られるようになった。磁器の製造は、文化年間(1804~1818)加藤民吉父子が肥前有田から染め付け磁器の製法を伝えたのに始まる。瀬戸物。瀬戸。

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改訂新版 世界大百科事典 「瀬戸焼」の意味・わかりやすい解説

瀬戸焼 (せとやき)

愛知県瀬戸市を中心として焼造された陶磁器の総称。その起源は古代末期にさかのぼる。古代,中世の瀬戸窯は東西11km,南北10kmの範囲に白瓷(しらし)窯9基,施釉陶窯201基,無釉の白瓷系陶器窯238基の存在が知られている(瓷器(しき))。古瀬戸(こせと)の発生については,1223年(貞応2)道元に随って入宋し陶法を修めた加藤景正(藤四郎)が帰国後,42年(仁治3)に瀬戸で窯を興したとする藤四郎伝説が流布しているが,その根拠は不明である。考古学的には,猿投(さなげ)窯の外延として11世紀に始まった瀬戸市南部の白瓷生産が12世紀に入って衰退し,無釉の白瓷系陶器(山茶碗)生産に転化し,12世紀末ごろ菱野地区で四耳壺,瓶子(へいし)などの施釉陶器を焼き始めたのが狭義の古瀬戸の始まりである。古瀬戸の製品は中国陶磁をまねた飲食器,調理具,貯蔵容器類で,13世紀には灰釉のみであったが14世紀には鉄釉を加え,天目茶碗,茶入などの生産も始められた。この時代には四耳壺,瓶子,仏花器,香炉などの宗教用具の生産が顕著であるが,15世紀に入ると碗,皿,鉢などの日常生活用具と茶陶の生産が優勢となった。

 16世紀に入ると窖窯(あながま)から高火度焼成の大窯に転換し,中国明代の青磁,白磁,染付磁器を模倣したが,16世紀中葉に戦国の乱を避けて陶工たちが美濃入りをしたため衰微し,窯業の中心は美濃に移った。安土桃山時代の雅陶である志野,黄瀬戸,瀬戸黒,織部はほとんど美濃の製品である。1615年(元和1)その指導者古田織部の死を契機として美濃窯業は主役の座から離れ,幕藩体制下には灰釉,鉄釉,御深井(おふけ)釉を主とした大衆向けの日常雑器の生産地になった。1610年(慶長15)初代尾張藩主徳川義直は加藤唐三郎,仁兵衛を美濃の郷ノ木(土岐市)から赤津へ,新右衛門を水上(みずかみ)(瑞浪市)から品野へ召還して窯業の振興策をとった。また寛永年間(1624-44),名古屋城内の御深井丸の北東にある瀬戸山に窯を築き,唐三郎らを招いて焼かせたのが御深井焼である。江戸時代の瀬戸窯業を特色づけるものは美濃同様,灰釉,鉄釉を施した大衆向けの日常食器類であった。尾張藩は産業政策として永代轆轤(ろくろ)一挺の制をたて,さらに享保年間(1716-36)には一家一人制を設けて統制を行ったが,江戸中期以降しだいに衰微に向かった。

 瀬戸の磁祖と仰がれる加藤民吉(1772-1824)が1804年(文化1)肥前に赴いて磁器の技法を学び,07年新製染付焼を瀬戸で開始するに及んで,磁器生産が急速に瀬戸・美濃一帯にひろがり,藩の保護政策を得て盛況を取り戻した。以後,幕末までに川本塐仙堂,加藤五助らの良工の手で技術改良が加えられ,また加藤春岱(しゆんたい)(1802-77)らの名工も出た。すでに1858年(安政5)ころから瀬戸,美濃において舶来洋食器を試作,海外雄飛を企図し始めていたが,明治維新によって藩政の庇護を失った陶業者は困窮に陥り,混乱をみるにいたった。しかし1872年(明治5)のウィーン万国博への参加を契機に,政府の陶磁器産業の振興策が動き始めた。その生産の大半を占めたのは輸出用の上絵磁器であり,国際競争力の点から安い日常食器生産の伝統をもつ瀬戸,美濃を背景に,名古屋を中心として窯業の近代化が進められた。1902年松村八次郎による石炭窯の完成で硬質陶器が生まれ,1904年には日本陶器の倒炎式丸窯の完成,機械化による量産体制の確立によって,近代化に一時期を画した。以後,瀬戸,美濃,名古屋は有田,京都を凌駕して飛躍的発展を遂げ,今日の陶磁器生産の基礎ができあがった。
美濃焼
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「瀬戸焼」の意味・わかりやすい解説

瀬戸焼
せとやき

愛知県瀬戸市一帯で焼かれた陶磁器の総称。日本の陶磁史の骨格をつくるとともに、製陶業の隆盛に大きな役割を果たしてきた重要な窯である。作陶の展開は、大きく中世と近現代とに二分され、二つの峰を形成している。

 中世の瀬戸焼は俗に古瀬戸(こせと)とよばれるもので、13世紀前半に開窯した。これは平安時代に現在の名古屋市、日進市、三好町、東郷町など広範な地域に築かれた猿投(さなげ)窯の系譜を引くものであるが、開窯は加藤四郎左衛門景正(かげまさ)とする陶祖伝説は、瀬戸古窯の考古学研究成果とおおむね時期的には一致している。鎌倉時代には猿投窯以来の築窯技術と施釉(せゆう)法を用いて施釉陶を焼く唯一の窯として発展し、とくに中国から輸入された宋(そう)・元代の青磁・白磁・黄釉陶を倣製(ほうせい)して一頭地を抜く存在であった。製品はおもに飲食器、貯蔵用器、宗教用具などであるが、14世紀初頭になると、これも中国から招来された喫茶の風習に従って人気を集めた茶具を写し、それまでの灰釉に加えて鉄呈色の黒褐釉もくふうされ、その作域は一挙に拡大した。この時期が中世瀬戸焼の最盛期で、製品のほとんどは東日本に流布したが、初めてその一部が海外へ運ばれたことは陶芸史上画期的なできごととなった。

 さらに14世紀中ごろ、室町時代に入ると、釉(うわぐすり)は透明度も増して安定し、それまでの粘土紐(ひも)成形法に加えてろくろ成形が導入され、碗(わん)・皿・鉢などの日用雑器のほか数多くの茶具が焼かれたが、出土品・伝世品を含めて優作には恵まれない。室町後期にはそれまでの窖窯(あながま)にかわる大窯が登場し、中国明(みん)代の陶器を倣製したが、この新形式の窯はむしろ美濃(みの)焼を活性化させる結果を生み、本家の瀬戸焼は衰微して俗に瀬戸山離散とよばれる凋落(ちょうらく)をみたとされる。当時の兵火を逃れて陶工たちが美濃入りしたとする説もあるが、このころ灰釉(かいゆう)から黄瀬戸釉が、また飴(あめ)釉から茶褐色の古瀬戸釉が生まれ、唐物(からもの)茶入れを写した瀬戸茶入れも現れるなど、実際には茶壺(ちゃつぼ)や茶入れを中心にした伝統的製陶の権威が守られ、この状態が17世紀まで貫かれたとの見方もできる。

 鎌倉・室町時代の古瀬戸の陶技が「本業」とよばれるのに対し、江戸後期(19世紀)を迎えて復活した磁器づくりを「新製」という。その間、江戸中期(18世紀)の瀬戸窯の低迷は覆うべくもなく、とくにみるべき活動の形跡がない。起死回生の一打となったのは、磁祖と尊崇される加藤民吉(1772―1824)が1804年(文化1)から07年まで、磁器の製法を九州肥前(ひぜん)の諸窯で学び、帰郷して新生染付磁器製法をもたらしたことである。加えて藩の保護を得た瀬戸焼は急速に蘇生(そせい)し、染付が瀬戸の主流となって川本治兵衛(じひょうえ)(仙堂(そせんどう))、加藤春岱(しゅんたい)(1802―77)らの名工を生んだ。以後、明治維新による藩の庇護(ひご)喪失の混乱を乗り切った瀬戸窯は、1872年(明治5)のウィーン万国博覧会への出品を機に海外市場を開拓し、石炭窯や倒炎式丸窯などを開発して機械化を図り、量産体制を確立して、いわゆる「せともの」の語源となるほど、名実ともに製陶業の中心地となって現在に至っている。現代作家では加藤唐九郎が著名である。

[矢部良明]

『楢崎彰一・林屋晴三他編『日本陶磁全集9 瀬戸・美濃』(1976・中央公論社)』『楢崎彰一著『日本の美術43 瀬戸・備前・珠洲』(1976・小学館)』


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百科事典マイペディア 「瀬戸焼」の意味・わかりやすい解説

瀬戸焼【せとやき】

愛知県瀬戸市を中心に作られる焼物の総称。平安期の須恵器の焼成に始まる。古瀬戸の発生については,鎌倉期に加藤景正が中国の陶法をこの地に伝えたのが起源といわれるが,確証はない。鎌倉〜室町期には緑色を帯びた灰釉が焼かれ,桃山期には茶道の発展に伴い天目志野焼織部陶黄瀬戸などの茶陶が多く作られた。桃山〜江戸初期に製陶の中心は美濃に移り,瀬戸の陶業は衰えかけたが,文化初年に加藤民吉が有田(伊万里焼)の製磁法を輸入して染付磁器の焼成に成功してから再び盛んとなった。今日でも日本第一の窯業地で,〈瀬戸物〉は陶磁器の代名詞ともなっている。
→関連項目唐津焼猿投窯

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「瀬戸焼」の意味・わかりやすい解説

瀬戸焼
せとやき

愛知県瀬戸市およびその付近で産する陶磁器の総称。特に近世以後のものを瀬戸焼,鎌倉~室町時代の窯芸と製品を俗に古瀬戸と称して区別する。平安時代初期頃から無釉の杯や小皿などが焼かれ,後期には灰釉の壺類が作られた。鎌倉時代には,初代加藤四郎左衛門景正 (藤四郎) が中国宋代の陶法を伝えたといわれ,飴釉の瓶子,仏花器,壺,皿などが作られた。室町時代には天目釉の使用が始って,茶壺や茶入れなどが大量に生産された。桃山時代には瀬戸黒,黄瀬戸,織部焼などの茶陶が盛んとなり,成形法もろくろ引きのほか型作り法が考案されて,食器,酒器,装飾具など製品の種類と量が増加した。江戸時代後期には,文化4 (1807) 年に加藤民吉が有田で染付磁器の製法を学んで帰り,以後磁器の生産が主となり,現代まで引続き日本のおもな産地となっている。唐津と瀬戸は二大製陶地であり,一般に焼物を中国地方以西では「唐津物」,近畿以東では「瀬戸物」という。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「瀬戸焼」の解説

瀬戸焼
せとやき

愛知県瀬戸市産の陶磁器。瀬戸には平安時代に猿投(さなげ)窯があり,鎌倉時代に北条氏得宗領にくみこまれたとされる頃,施釉陶器窯として基礎が固められた。1223年(貞応2)道元について陶祖加藤景正が中国に入り陶業を学んだという伝説は,鎌倉時代に発展したことを反映する。輸入中国陶磁の白磁写しを行い,14世紀前半には青磁や黒褐釉陶を写した。室町時代には,茶入・茶壺に力作を残し,安土桃山~江戸初期まで唐物茶入の写しで声価を高めた。江戸中期は低迷したが,後期に加藤民吉が磁器の製法を肥前国伊万里で学び,再び日本を代表する窯場に成長して今日に至る。

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旺文社日本史事典 三訂版 「瀬戸焼」の解説

瀬戸焼
せとやき

愛知県瀬戸市を中心に産する陶磁器の総称
平安時代の六古窯の一つ。鎌倉初期,加藤景正が道元に従って南宋に渡り,中国の製陶技術を学んで帰国,瀬戸に窯を開いてから急速に発展したという。以来,瀬戸はわが国第一の製陶地として現在に至る。

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