玉器は中国において早く長江(揚子江)下流の新石器時代後期の良渚文化(前3千年紀中ごろ~前2千年紀初め)で高度に発達していることが最近明らかになった。装身具に腕輪(図(1)),いわゆる玦状(けつじよう)耳飾,弓なりの首飾や小玉(こだま)(図(2)),垂飾,かんざし等がある。後世,瑞玉(ずいぎよく)と呼ばれた玉器,すなわち王が臣下に領土を安堵し,あるいは何かの任務を命ずる際にしるしとして貸与し,また貴族間の贈物に使われた象徴的な玉器も多く作られている。玉製の斧,璧(へき),琮(そう)(図(5))がそれである。玉製の斧は後にも長く作られ(図(4)),前3世紀ころまで伝統が続き,前1千年紀末の古典中で琬圭(えんけい)と呼ばれるにいたる。璧は当時天体をかたどったと推測すべきふしがあり,琮は四隅に天神を表した人面を刻む。璧は後2世紀ころまで(図(3)),琮は前3世紀ころまで使われつづけることになる。この時期に死者の腹と背に璧を,周囲に璧や琮を副葬した墓が発見され,魔よけや死体の保存のために,この種の玉器を副葬するという後2世紀までたどられる風習が,この時代にまでさかのぼることが知られている。この時期に特徴的な玉器としては,他に太陽神をかたどる逆梯形板状の玉器がある。良渚文化と並行期の華北の竜山文化に巴形の玉器があるが,前2千年紀後半には大型化し,前10世紀ころまで瑞玉として使われている。これは後に圭璧(けいへき)(図(6))と呼ばれたものと考えられ,天文観測用の璇璣(せんき)に当てる説は誤りである。
前2千年紀中ごろには瑞玉の発達が頂点に達する。穀物の穂摘み用の石庖丁や,田畑を耕起する骨製の鋤先を原形とした玉器(図(7))が多い。従来前11世紀より下ると考えられていた類である。長さ30cm内外の大型品も普通で,ときに長さ数十cmに及ぶものもある。厚さ数mmのこの手の玉器が2枚におろされている例も珍しくない。割符的な使用法を示すものと考えられる。これらの玉器が瑞玉としての機能を現実的に果たしたのは,この時期に盛んとなった地方首長の征服・統合の過程においてであったと考えられる。この式の玉器は前14世紀に青銅製の祭祀・饗宴用の飲食器が発達するとともに衰える。国家機構の中で果たしていた役割が青銅器に移ったからである。石庖丁形のものは前11世紀ころに終末期に達し(図(8)),骨製の鋤先をかたどったものは前5世紀の秦にわずかに残存する。この時期に特徴的な玉器としては,ほかに断面がT字形の環(かん)があり,この玉器は前2千年紀後期にもとづく。
前14世紀~前10世紀ころ,すなわち殷王朝後期から西周前期にかけての時期には,自然の動物や想像上の動物をかたどった小型の装身具,護符,愛玩品が多く作られた(図(9)~(13))。身体細部や装飾を,両側から彫り残した紐状の凸線で表現するところに特色がある。この時期には玉製の容器も現れ,刀の柄など器物の部分を玉で作ることも行われた。祭礼で酒を注ぐ勺にすげる玉製の柄も多く(図(14)),前9世紀にはこれが大型化して瑞玉として扱われ,前1千年紀末の古典中で大圭(たいけい)(図(16))と呼ばれている。この時期には青銅のソケットに玉製の刃をはめた矛,斧,戈(か)が現れ,また玉製の戈も多い(図(15))。玉製の戈は形が単純化されながら長く作られつづけ,前1千年紀末ころには琰圭(えんけい)(図(17))と呼ばれ,前2~後2世紀にも圭として知られていた。前11世紀に始まる周王朝に特徴的な型式の戈をかたどった玉器は,後にも引き継がれてゆく。図(18)は前5世紀初めまで下る例で,瑞玉をかたどった玉片に一族郎党で行った盟(ちか)いの文句を朱書し,犠牲の家畜と共に地中に埋めたものがあり,この形の玉器は前1千年紀末の古典中で璋(しよう)と呼ばれている。
前10~前9世紀の交,すなわち西周中期は社会慣行,宗教観念の顕著な変革期に当たるが,それに対応して出現した瑞玉として,勺の柄に取り付ける玉がある。前1千年紀末の古典中で祼圭(かんけい)(図(19))と呼ばれるものである。前10~前8世紀には前の時期に多かった動物形の玉器の製作は衰える。しかし想像上の動物をかたどったものは,この時期の様式をもって作られつづけ,緩い傾斜をもってする片彫の技法(図(19),(20))に特徴がある。
前7~前5世紀,すなわち春秋時代にはコンマ形ないしそれから変化した円い粒々(図(21))を刻み出した文様の幾何学的な形の装身具が好まれた。佩玉(はいぎよく)と呼ばれる。これには新石器時代以来の弓なりの玉器(璜(こう)。図(21)-a),幅の広い環状の玉(環。図(21)-b),幅の狭い環状の玉(瑗(えん)。図(22)),C字形やS字形等に身体をくねらせた竜形の玉などのほか多くの種類があり,それらは紐でつるして組み合わせて使用された。組合せの方式には後世の学者が考えたような決まった方式はなかった。上記の類と並んで前4世紀に始まって前2世紀ころまで,別の技法の玉器が作られる。表面を平滑に仕上げ,細い刻線で細部を刻み,細かい透し彫を併用するものであり,中国古代玉器製作技巧の頂点をなす(図(23))。この時期には革バンドの留金が男性のおしゃれのポイントの一つであったが,それを玉で作ったものも多い(図(27))。また弓を引くときに親指にはめて弦を引っ掛ける道具である抉(けつ)を玉製の装身具にしたものが現れる。図(24)は実用品の原形を残すが,図(25)は完全に装飾品化している。これが玦である。紐の結び目を解く道具である觽(けい)の玉製品は前2千年紀からあるが,図(26)はその装飾品化したものである。これらは玉製の印や青銅の鈴などといっしょに腰に佩用された。後1~6世紀には図(21)のような装身具の玉を,また家屋や調度の装飾にも使用した。前4~前3世紀ころには瑞玉や佩玉をかたどった小玉片を縫いつけた裂地を死者にかぶせる風が起こった(図(28))。駔圭(そけい),駔璋(そしよう)などと呼ばれる。これから発達したのが前2世紀ころの貴族が埋葬に使った玉衣で,小さい玉板を金や銀の針金でとじて死体を完全に包むようにしたものである。
→玉
執筆者:林 巳奈夫
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中国で硬玉や軟玉からつくられた半宝石をいう。竜山文化期以来の長い歴史をもつ。玉器は古来、天子・諸侯の権威のシンボルとされ、祭祀(さいし)に用いた祭玉や佩用(はいよう)の瑞(ずい)玉、容器の(き)、盤(ばん)や、武器の戈(か)、矛(ぼう)、戚(せき)、鉞(えつ)、工具の刀(とう)、鏟(さん)などを模したもののほかに、人間、竜、鳥、虎(とら)、羊、牛、犬、蛙(かえる)、亀(かめ)、魚などをかたどった彫玉類など多くの玉器が今日知られている。祭玉や瑞玉のなかで代表的なものは、圭(けい)、璋(しょう)、璧(へき)、琮(そう)などで、圭は長方形板状の玉、璋はそれを半分にしたもの、璧は扁平(へんぺい)環状で孔(あな)の小さいもの、琮は長短さまざまな円筒状の玉である。ほかに半璧の璜(こう)、小形の璧の一方を欠いた玦(けつ)などがあり、その形体から玉質に至るまで多くの変遷があったが、古代中国人は玉に神霊なるものを感じたと思われ、墓室にまで持ち込んでいる。前漢の中山王劉勝(りゅうしょう)が玉衣をまとった姿で発見されたが、玉の神霊性に肉体の不滅を願ったものと考えられる。
[武者 章]
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