日本大百科全書(ニッポニカ) 「環境芸術」の意味・わかりやすい解説
環境芸術
かんきょうげいじゅつ
environment(al) art
環境とのかかわりにおいて展開される芸術作品あるいは表現活動をいう。歴史上のあらゆる表現活動は環境芸術であるともいえるが、ここでは20世紀におこった新しい芸術の動きに限って三つに分けて述べる。いずれも相互にかかわりあっている。
[三田村畯右]
公共環境における造形
未来派(未来主義)が美術館からの作品の解放と環境の彫刻を唱え、構成主義者たちが造形芸術の町なかへの解放を提唱して以来、世界各地で展開されてきた公共環境への造形作品適応のための運動、政策である。
まず、1920年代にはメキシコでリベラやシケイロスらが壁画運動を推進した。アメリカでは大恐慌下の1935年、大統領ルーズベルトがニューディール政策の一環としてWPA(Works Progress Administration、事業促進局)を設置し、困窮した芸術家の救済と芸術振興を目的として公共建築物の装飾に従事する機会を与えた(連邦美術計画)。同じ年、フランスとスウェーデンでは、公共建築費の1%を芸術装飾費とする制度が発足し、第二次世界大戦後はユネスコ(国連教育科学文化機関)でも1957年の国際造形家会議で、建築費の2%を造形作品の費用にあてるのが望ましいと決議している。こうした公共環境造形は、社会・文化政策の一環であり、単に造形物を建築に付加するのではなく、1960年代のストックホルムの地下鉄駅や、1980年代のパリ再開発にみられるように、環境の全体計画のなかで人々の合意のうえで進められるものである。1981年、ニューヨークのフェデラルプラザに設置された、アメリカの造形作家セラの鉄による巨大な彫刻が、その危険性をめぐって訴訟にまで発展し、1989年には撤去される事件がおき、公共環境造形のあり方に問題を投げかけた。
[三田村畯右]
自然環境にかかわる造形
公害が問題になり環境への関心が高まった1960年代末から増えてきた、自然環境とのかかわりにおいてなされている造形活動である。たとえば、地面に石や木を並べたりするランド・アートやアース・ワークなど恒久的でない造形は、今日ではインスタレーションの名で一般化している。スミッソンの『螺旋(らせん)形の突堤』では、波間にさらわれてその行為の結果は跡かたもなく、記録だけが残されるのである。またクリストの『議事堂の梱包(こんぽう)』のように、国会の承認を得るといった社会制度に踏み込んだものまである。さらに稲妻を誘導して落雷させるデ・マリアWalter De Maria(1935―2013)や、タレルの、死火山の内部にトンネルを掘り、南天した時の月の像を、ピンホール・カメラの原理によって地下室の壁面に映し出そうとする壮大な「ローデン・クレーター」プロジェクトは、人為の及ばない天然現象さえ芸術に取り込もうとする試みとして注目されている。1980年にはアメリカ航空宇宙局(NASA)との共同で、人工衛星を用いたコスミック・アートも試みられた。これらが人の集まる公共環境よりは、人里離れた自然の中で多くなされていることは留意すべきであろう。1992年にリオ・デ・ジャネイロで催された「エコ・アート」展のように、自然環境保護を訴える動きもある。
[三田村畯右]
総合芸術としての環境芸術
1959年に、アメリカの現代美術オルガナイザーであるカプローが唱えた「見る者を取り囲み、光、音、色彩を含んだあらゆる素材からなる空間全体を満たす芸術」を環境芸術とする考えである。これもさかのぼれば、未来派の諸活動に起源をみいだすことができ、造形のみならず身体表現による一回性の偶発的なパフォーマンスまでも含む芸術表現活動という意味で、総合芸術といいかえてもよい。恣意(しい)的な芸術家の行為のみならず、シンセサイザー作曲家冨田勲(とみたいさお)の音と光による大衆を巻き込んだページェントなどのように、より開かれた環境芸術も増えている。
[三田村畯右]
日本における環境芸術
広場に造形物を設置する習慣のなかった日本では、1893年(明治26)、大熊氏廣(おおくまうじひろ)(1856―1934)によって『大村益次郎像』(靖国(やすくに)神社)が建立されて以降、数多くの顕彰・軍神像がつくられたが、第二次世界大戦中にその多くが供出され鋳(い)つぶされた。
第二次世界大戦後、広島の平和大橋のデザインをイサム・ノグチに、東京都庁舎(丸の内旧都庁舎)の壁面装飾を岡本太郎に委嘱したのが今日の環境造形の始まりである。以後、公共環境造形に関する制度は一部の自治体で条例化されはしたものの、社会・文化政策の一環として位置づけられてはおらず、彫刻による町おこしや企業イメージに役だつものとして進められているのが現状である。なかには環境公害と指摘されるものさえある。その延長上で、1990年代に100余点の作品を街なかに設置した「ファーレ立川」などのパブリック・アートが話題をよんだ。
1950年代後半から野外彫刻展や彫刻シンポジウムなどが盛んになり、1970年ごろからは彫刻展でもインスタレーションが一般化し、バラック建築風の川俣正(かわまたただし)、木材と煉瓦(れんが)を積み上げる國安孝昌(たかまさ)(1957― )らが大がかりな展開で知られている。この間、1966年にはエンバイラメントの会による「空間から環境へ」展(東京・銀座松屋)が催され1970年大阪万国博覧会での高揚への契機となった。
なお、行為までも含めて芸術を考えるという意味での総合芸術としての環境芸術は、大正期に前衛芸術としての「マヴォ」(1923年に村山知義(ともよし)と未来派美術協会のメンバーであった尾形亀之助(かめのすけ)、柳瀬正夢(やなせまさむ)らにより東京で発足した前衛美術グループ)のアクション、第二次世界大戦後の「具体」グループ(具体美術協会)のハプニング、イベントにその系譜をみいだせる。流行語ともなっているパフォーマンスは、格別に環境芸術という認識で行われているのでもないのが実情であろう。
[三田村畯右]
『ジョン・バーズレイ著、三谷徹訳『アースワークの地平 環境芸術から都市空間まで』(1993・鹿島出版会)』▽『樋口正一郎著『パブリック・アート都市』(1994・住まいの図書館出版局)』▽『茂木一衛著『宇宙を聴く 究極の環境芸術をもとめて』(1996・春秋社)』