田遺跡(読み)くしだいせき

日本歴史地名大系 「田遺跡」の解説

田遺跡
くしだいせき

[現在地名]上月町櫛田

千種ちくさ川中流域左岸、同川支流須山すやま川の河岸段丘面および両河川が形成した扇状地の標高三八メートルの地点に立地する。縄文時代中期から平安時代にわたる集落遺跡。昭和五五年(一九八〇)から平成元年(一九八九)にかけて数回発掘調査された。弥生時代の竪穴住居跡二棟、古墳時代の竪穴住居跡三棟および鍛冶炉一基、平安時代の掘立柱建物跡一棟・集石遺構二ヵ所・土壙墓一基や柱穴群・土壙群が検出されている。


田遺跡
たたらだいせき

[現在地名]西淡町志知鈩 アサカ

三原平野西縁部、西淡丘陵麓に広がる標高一五―二〇メートルの台地端および台地前面の沖積地にかけて広がる集落跡。集落は弥生時代後期から古墳時代前期、白鳳期から奈良時代前半、平安時代後半から鎌倉時代の三時期を中心に営まれている。昭和五八年(一九八三)に発掘調査された。台地の縁辺に沿って溝が巡らされ、その内部に円形竪穴住居跡三棟、方形竪穴住居跡一棟、土壙等が構築されている。


田遺跡
よもぎだいせき

[現在地名]遠野市松崎町白岩 蓬田

さるいし川が蛇行して段丘面を形成する洪積高位段丘面の先端にある舌状台地上に立地する。昭和六三年(一九八八)の調査によると、縄文時代の落し穴状遺構一九基、奈良時代の竪穴住居跡二一棟、中世の竪穴住居跡四棟が検出された。

奈良時代の竪穴住居跡は平面形が隅丸方形で、規模は大型のものと小型のものとがはっきり区別され、大型は一辺六―七メートル、小型一辺二・五―四メートルである。柱穴は確認できたのは六棟で、一棟四―六である。竈は北壁中央につくられており、わずかではあるが東壁につくられているものもある。出土遺物は轆轤未使用土師器の坏・高坏・壺・甕・甑と土製品の紡錘車・土玉、鉄製品の鎌・刀子・鉄斧と多様である。


田遺跡
といだいせき

[現在地名]東郷町山陰

耳川支流の坪谷つぼや川左岸、標高四四メートルの南西向きの緩斜面の丘陵裾部と沖積地との境付近にある。縄文時代・弥生時代および中近世に営まれた集落跡である。平成元年(一九八九)に発掘調査が行われた。縄文時代では後期の竪穴住居跡二軒(隅丸方形・楕円形)と後期を中心にした土器群、小量の晩期後半の土器、石器類として石鏃石錘・石斧・磨石・凹石・敲石・スクレーパー・石核が検出された。後期土器群は草野式系などの貝殻条痕文土器が主体を占めているが、そのほか鐘崎式・西平式などの磨消縄文系土器がある。弥生時代では竪穴住居跡一六軒、方形の竪穴状遺構一基、土器集中部一ヵ所が検出された。


田遺跡
たるだいせき

[現在地名]津南町外丸 樽田

信濃川左岸、頸城くびき丘陵東面は樽田川の深い開析谷を形成する。標高五七〇メートルにある。今は廃村となった樽田集落の北方六〇〇メートルにあたる。南面する遺跡は昭和二九年(一九五四)の開墾によって発見、遺構は東西二〇メートル、南北三〇メートルほどとみられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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