甲賀衆とも称し,近江国甲賀郡の地侍をいう。伊賀者とともに忍者として有名。甲賀武士の活動は鎌倉時代からみられ,室町時代には近江の守護六角氏の配下に属し,山中,神保,美濃部,伴,望月の諸氏をはじめ53家を数えたという。彼らは早くから徳川氏との間に関係を保ち,江戸開幕とともに家康の召致をうけたが,大半のものはそれを断って土着して郷士となり,その後も侍分の特権を与えられていた。しかし,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で家康の部将鳥居元忠指揮下にあって伏見城を死守したものの子孫は,与力(10騎),同心(100人)として召し出されて山岡備前守景友(道阿弥)に配属され,景友の知行9000石のうち4000石がその給分にあてられた。これはのちに百人組(鉄砲百人組)4組のうちの甲賀組となった。ちなみに,甲賀組は頭1人(役高3000石,布衣,菊之間縁頰詰,若年寄支配)のもとに与力20騎(役高現米80石,御目見以下,役上下,譜代席),同心100人(役高30俵二人扶持,御目見以下,譜代席)があり,平素は他の3組(根来組,伊賀組,二十五騎組)と交替で江戸城大手三の門を警衛した。
執筆者:北原 章男
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近江(おうみ)国(滋賀県)甲賀郡の地侍(じざむらい)出身者の総称。忍びの術に長じ、伊賀者と並んで江戸幕府や諸藩に召し抱えられた。徳川氏と親密になったのは、本能寺の変に、おりから堺(さかい)に滞在中の家康が急遽(きゅうきょ)伊賀越えで帰国する際、護衛にあたったことによる。関ヶ原の戦いに先だつ伏見(ふしみ)の籠城(ろうじょう)戦に、甲賀から100余人が救援に駆けつけたが、うち70余人が戦死している。戦後、家康は彼らの功に報いるため、甲賀百人組を編成させ、江戸城の大手三門の警固にあたらせた。関東に移住することを嫌った者たちは生国で郷士となったが、寛政(かんせい)の改革当時、幕府に忍術復興を陳情した古士(こし)二十一家のうち約半数は経済的に窮迫し、忍術の維持は困難であると訴えている。
[渡邉一郎]
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