江戸時代の町や村に置かれた番人のこと。番人を番太と呼ぶことは各地に広く見られるが,番太郎の称はこの番太から転じたものと考えられる。番人の性格は,都市と農村で,あるいは地域によってさまざまな違いがあり,江戸,大坂,京都の三都だけをとっても大きな差異がある。
江戸の場合,番小屋であるとともに公用,町用を弁ずる会所の機能を併せもった自身番屋には,書役として裏店借(うらだながり)の者などが雇われていたが,彼らは自身番親方とは呼ばれても,番太または番太郎とは呼ばれなかった。江戸で番太または番太郎と呼ばれたのは,町の出入口に置かれた木戸番である。木戸番の仕事は,夜の四ッ時(午後10時)ごろに木戸を閉じ通行人をチェックしたり,夜間には拍子木を打って町内の夜警に回った。また将軍の〈御成(おなり)〉のあることや,町触(まちぶれ)のあること,あるいは御免勧化(ごめんかんげ)(勧進)の来たことなどを,鉄棒を引いて町内に知らせて回った。木戸番は番小屋に住み込み,そこで草履,わらじ,ほうき,鼻紙,ろうそく,駄菓子などを売っていたため,商番屋(あきないばんや)とも呼ばれた。この副業はわりに収入があったらしく,木戸番の職は近世後期には株化していた。このほか,江戸には出床(でどこ)の髪結が番人を兼ねていたり,〈非人〉の物貰いを制道(せいどう)(統制というほどの意味)するために町内に〈番非人〉を置く所もあったが,これらはいずれも番太とは呼ばれていない。
大坂の場合,町ごとに会所があり,そこに町代がいたが,彼らは番人ではない。各町には店借の夜番人が雇われて,木戸の番や夜警などに従事しており,大坂ではこの夜番人が番太であったと考えられる。このほかに,四ヶ所長吏の支配下で〈非人〉身分の番人がおり,垣外番(かいとばん)と呼ばれていたが,その役割は〈非人〉の制道が中心だった。京都の場合,各町に番人親方から派遣された番人がおり,番太と呼ばれていた。この番人は,木戸番,夜警から〈非人〉制道などまでを幅広く行っていた。番人親方とは悲田院年寄支配下の〈非人小屋頭〉,もしくは小屋頭下の者である。すなわち,京都では江戸や大坂と違い町の番人として〈非人〉身分の番人だけが存在したのである。このため,京都では,番人が〈非人〉と同義で用いられるほどであった。なお京都の各町には町用人と呼ばれた会所守が雇われ,町の雑用を行っていた。
執筆者:塚田 孝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…夜間は町の両側の木戸を閉ざし,通行人は番人が拍子木で合図をして町送りにした。番人は番太郎ともよばれ,業務の片手間に駄菓子や鼻紙,ろうそく,わらじなどを売った。番人の給金は毎月晦日に,町の居住者から家主へ支払った銭で支給された。…
…いずれも内容ははっきりしないが,黒砂糖を使ったおこしやあめの類が多かったようである。それらをどこの町でも番太郎が副業として,わらじ,鼻紙,もぐさ,ろうそくなどの荒物(あらもの)とともに番小屋であきなっていた。それで,〈番太郎菓子〉と俗称されたという。…
…やがて神田の弁慶橋近く(現,千代田区岩本町2丁目あたり)に〈原の焼芋〉と通称された店ができて評判になり,以後江戸は焼芋全盛時代を迎えた。そして前記《嬉遊笑覧》の記事のような現象を呈したのだが,それほど焼芋屋が多くなった原因の一つには,ひと口に八百八町といわれた町々の木戸を守った番太郎の多くが,副業として焼芋屋や駄菓子屋を営んだためであった。上方では天保(1830‐44)までは蒸芋がほとんどだったらしい。…
…【飯田 悠紀子】 江戸時代は町の両端に木戸が設けられており,夜間はこの木戸を閉鎖して不審な者の通行を規制し,盗難の防止や防火に努めた。江戸では,木戸番(番太郎と呼ばれる)が夜10時で木戸を閉め,それ以後の通行人は潜(くぐ)り戸から通し,不審者は直ちにつかまえた。木戸番は木戸閉鎖後には,通行者のあったことを拍子木を打って次の木戸へ知らせたが,これを継ぎ送りという。…
※「番太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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