夜間に,公共の建物,企業,町内などを見回り,火事や犯罪の警戒をすること,またその人をいう。
古代の夜警としてはギリシアやローマに見張番や不寝番師団があり,夜間の騒音や犯罪の防止,とりわけ火災予防に当たっていた。中世には,すでにカール大帝が自由人に一般の軍役のほかに夜間の見張りを義務づけている。国の秩序の維持と都市や城塞の警備,帝国国境の警備が主たる内容で,遠征に赴くことのできない貧しい人々にも夜警の義務が課されていた。のちには塔守が現れたが,それは戦時の警備だけでなく,城の安全と平和を守るために配備されたものであった。神が人々に安らかな夜とよき昼を与えて下さるようにとの祈りをこめて朝の歌と夜の歌を歌ったのも塔守であった。ウォルフラム(エッシェンバハの)によると,中世文学の一ジャンルである男女のきぬぎぬの別れの歌のなかに塔守が登場する。男女の朝の別れの歌を扱った16世紀のビラにも角笛をもった夜警が描かれている。
都市の成立後は矛槍と角笛を手にした夜警が現れる。初期には市民が交替で夜警を務めたが,のちには一定の金額を払って夜警の義務を免れることができるようになり,専門の夜警が生まれた。都市の夜警は朝と夕の訪れを告げるだけでなく,時刻も知らせた。15世紀の時刻の告知によれば,口上は〈お聞き召されよ旦那方,言わせて下さい。時計は6時を打ちました。火の用心〉であった。イタリアの夜警は時刻だけでなく天候も告げたという。夜警は人々が寝静まる夜に眠ることなく,夜の領域と接触をもつ人間として,いわば大宇宙(マクロコスモス)と常時かかわる存在だったから,所によっては賤民とされた。
執筆者:阿部 謹也
古代・中世の夜警についてはあまりつまびらかではない。史料上に散見するところでは,夜警のために巡視することを行夜(ぎようや)/(こうや),夜行,夜巡(よめぐり),夜廻(よまわり)などと表現している。令によれば町角ごとに鋪(ふ)(守道屋で,のち助鋪(こや)/(ひたきや)ともいわれた)を立てて衛府が警備し,一般の夜間通行を禁じる規定があった。古代の京都では左右衛門府,近衛府などがその任に当たったらしい。平安時代末期になると武士が夜警を担当するようになり,内裏(だいり)では有力武将の指揮のもと,内裏大番役の一環として夜警が行われたと思われる。鎌倉時代には〈夜行者警衛,悪を止(とど)むるの要なり〉(《追加法》)といわれ,鎌倉においては保奉行人が夜行を勤め,京都では鎌倉御家人が内裏大番役,篝屋(かがりや)番役の任に当たって,内裏・京中の夜警を担当した。南北朝,室町時代については不明な点が多い。
執筆者:飯田 悠紀子 江戸時代は町の両端に木戸が設けられており,夜間はこの木戸を閉鎖して不審な者の通行を規制し,盗難の防止や防火に努めた。江戸では,木戸番(番太郎と呼ばれる)が夜10時で木戸を閉め,それ以後の通行人は潜(くぐ)り戸から通し,不審者は直ちにつかまえた。木戸番は木戸閉鎖後には,通行者のあったことを拍子木を打って次の木戸へ知らせたが,これを継ぎ送りという。また木戸番は,御触などのあることを鉄棒を引いて知らせたり,夕方6時には拍子木を打って時を知らせた。大坂では,これらは夜番人の仕事であった。夜番人は,夜10時から明方6時まで木戸を閉じ,1時間ごとに町内を巡回した。捨子の多いのは夜番人の怠りゆえであると戒められているので,盗みや火災への警戒に加えて,捨子の防止も彼らの役目の一つだったことがわかる。夜番人は町に雇われ,給銀や町儀(ちようぎ)の際に祝儀を与えられていたが,昼間は別の仕事をもっている者もいた。そのためか,夜番人は夕方6時から明方6時までの勤務を求められていたにもかかわらず,6時を待たずに早退することも多かったらしく,早退を戒める命令がしばしば発せられている。なお京都では,非人身分の番人が木戸番にあたっていた。このような恒常的なものに加えて自身番が行われる時がある。自身番とは本来,家持が自分で勤めることを原則としていた。江戸では例年,冬・春(10月から2月まで)の火災の多い季節に行われるとともに,御成(おなり)の時や風烈の時にも臨時に自身番が命ぜられたが,この時,夜間は2時間ごとに町内を巡回して警備にあたった。大坂では例年12月朔日より翌正月15日までの期間自身番が行われたほか,大坂でも京都でも,大嘗祭その他さまざまな機会に臨時に自身番が命じられることがあった。
執筆者:塚田 孝
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…オペラ,バレエが上演される市立劇場のほかに多くの小劇場があり,大きな催しや展示にはライRAIと国際会議場があてられる。 市の中心ダム広場にある王宮は旧市庁舎で,1657年建築家カンペンにより完成された(レンブラントの《夜警》はこの市庁舎の壁に飾るために描かれた)。市庁舎は19世紀初め王宮として使用されるようになったが,柵もなく衛兵も立たず,事実上の王宮はスーストデイクSoestdijkおよびハーグにあるため,ふだんは使用されず内部の見物も許される。…
…42年には市民自警団の委嘱で《フランス・バニング・コック隊長の射撃隊》を制作。《夜警》の誤称で知られるこの大作は,《解剖学講義》で効果をあげた集団肖像画へのドラマの導入をいっそう大胆に発展させたもので,従来の制約を破って,単調に陥りがちなこの画種を歴史画の理念と結合させた無比の野心作である。 同年サスキアが息子ティトゥスを残して他界。…
…例えば刑吏は人間社会の秩序を維持するうえで不可欠な存在であるが,これは生と死の狭間に生きる存在として,共同体の外の死の世界と接触をもっている限りで怖れの対象となり,賤視される存在となる。墓掘り人,浴場主(外科医を兼ねる),夜の世界に生きる夜警などはみな,死,彼岸,死者に対する儀礼とかかわる点で怖れと賤視の対象となる存在であった。 亜麻布織工(アマ),粉挽き,娼婦などはいずれも狭義の共同体から排除された存在として中世において賤視の対象であったが,これらの人々も成長,豊穣,性(エロス)などとかかわる存在であった。…
…江戸で番太または番太郎と呼ばれたのは,町の出入口に置かれた木戸番である。木戸番の仕事は,夜の四ッ時(午後10時)ごろに木戸を閉じ通行人をチェックしたり,夜間には拍子木を打って町内の夜警に回った。また将軍の〈御成(おなり)〉のあることや,町触(まちぶれ)のあること,あるいは御免勧化(ごめんかんげ)(勧進)の来たことなどを,鉄棒を引いて町内に知らせて回った。…
※「夜警」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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