創建は寺蔵の当麻曼荼羅縁起・当麻寺縁起によれば、天武天皇九年に着工し、同一三年には金堂・講堂・千手堂・東西両塔などが完成し、百済の恵灌が導師となり落慶法要が行われた。しかしその前身は
平安後期には他の大和の寺院と同様奈良興福寺の支配下に入り(「簡要類聚鈔」など)、治承四年(一一八〇)平家の興福寺・東大寺焼討に際し、竹内街道より来襲した一隊によって講堂は炎上し、金堂の一部が破壊されたが、鎌倉時代にはようやく復興。当初は三論宗であったが、空海の留錫後真言宗となり、観音信仰が盛んになったことは現存する仏像によっても知られる。鎌倉時代には「元亨釈書」や「古今著聞集」を通して当麻曼荼羅の説話が広く流布し、多くの人の信仰をよぶようになった。本願尼中将姫については、その後右大臣藤原豊成の息女という説が伝わるが、これには諸説があって明らかでない。曼荼羅の説話や信仰が広まるにつれて、当麻寺は曼荼羅堂を中心に浄土の霊場として尊崇されるようになった。「一遍上人絵伝」には曼荼羅堂で参詣人たちに念仏を授ける一遍の姿が描かれている。
当麻曼荼羅は観無量寿経に説くところによって造立された観経浄土変相図で、根本曼荼羅図である国宝綴織当麻曼荼羅図は今も寺に残るが、永年のうちに破損がひどくなったので鎌倉時代以降何回かの転写が行われた。第一回は建保五年(一二一七)転写の建保本曼荼羅であるが、寺には残存しない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良県葛城市の旧当麻町当麻にある高野山真言宗・浄土宗の2宗兼帯の寺。山号は二上山禅林寺。二上山の南東麓にあり,寺のすぐ西に丸子(まろこ)山(麻呂子山)がある。寺伝によれば,用明天皇の皇子麻呂子親王が612年(推古20)河内国交野(かたの)郡山田郷(二上山西麓)に草創した万法蔵院禅林寺を,同親王の孫当麻国見が役小角(えんのおづぬ)(役行者)の練行地である現在地に移し,681年(天武10)に起工,685年に至って諸堂舎が完成,寺号を当麻寺と改めたというが,もともと奈良時代初期に現在地に創建された寺で,この地に勢力をもつ当麻氏の氏寺であったと考えられる。金堂,講堂,東西両塔が南面して建ち,また金堂と講堂の中間西方に曼荼羅堂が東面して建つが,現在ではこの堂が中心の位置を占め,東大門が正門となっている。嵯峨天皇のとき空海が留錫し,源信がここで来迎会を始めたとの伝承があるが,これは当寺が三論宗から真言宗化し,さらに浄土信仰の拠点となったことを物語るものである。1180年(治承4)の兵乱で金堂が大破,講堂が炎上した。金堂は84年(寿永3),講堂は1303年(嘉元1)に再建されたが,この災害復興期から,当寺は阿弥陀浄土変(当麻曼荼羅)を中心とした寺となっていった。
当寺に施入された曼荼羅に対する信仰は,浄土教信仰の興隆や中将姫伝説と深く結びついているが,1161年(応保1)曼荼羅堂大改造の前後より高まり,鎌倉時代になってとくに盛んとなった。曼荼羅を安置する厨子は1242年(仁治3)に改造され,43年(寛元1)須弥壇に螺鈿が施された。このころ根本曼荼羅を板に張りつけたと思われる。現在厨子内に懸けられているのは第2回転写の〈文亀曼荼羅〉(1502)である。当麻寺が曼荼羅を中心とした浄土信仰の霊場となるにつれ,浄土宗系の僧侶が集まり,教化の場としたり,維持・修理などにも関与するようになった。浄土信仰の霊場として貴賤道俗の信仰を集めたことを証する諸資料が,曼荼羅堂の昭和解体修理(1957-60)の際多数発見されている。板光背,台座,巡礼札,笹塔婆,納骨五輪塔,写経石などがそれである。このうち板光背や台座は来迎会に用いられたものと推定されている。当寺の来迎会は聖衆来迎練供養会式(しようじゆらいごうねりくようえしき)といい,各地の来迎会のなかでも代表的なものである。俗に〈当麻のお練り〉といわれ,中将姫が当麻寺で現身のまま成仏したという伝承を再現したものである。現在は5月14日,もとは旧暦3月14日に開催された。塔頭(たつちゆう)も多数あったが今に残るのは真言宗5ヵ院,浄土宗8ヵ院である。このうち中之坊,西南(さいなん)院(真言宗),奥院,護念院(浄土宗)には文化財が多い。
執筆者:伊藤 唯真
寺地は二上山麓の西から東に下る地勢にもかかわらず,金堂と講堂を南北に並べて南面させ,金堂前方の東の高台に東塔(天平時代末期,国宝),西側に西塔(9世紀後半,国宝)を配置する,古代双塔式伽藍では現存唯一の遺構である。講堂(重要文化財,1303)は1180年の罹災焼失後,当初位置に再建した。曼荼羅堂(本堂,国宝)は,その前身堂が奈良時代の住宅古材を転用して,天平時代末~平安時代初頭ころに建立され,本尊として四方開放の六角厨子に《当麻曼荼羅》を懸垂してまつる。1161年(応保1)に現状のように改められた。重要文化財建造物では他に薬師堂(1447),中将姫剃髪所と伝える中之坊書院(17世紀中ころ)がある。
創建期の遺品では,金堂本尊弥勒座像(白鳳期,国宝)は本格的な塑造の丈六仏で,様式上新羅の造形に近く,当麻氏と新羅との関係をうかがわせる。当初の弥勒三尊のうち両脇侍は欠失し,かわって金堂内安置の四天王立像(白鳳期)は初期乾漆像の遺例として貴重。他に押出三尊仏(7世紀後半,奥院),最古の和鐘(681ころ),最古の石灯籠(天平以前,金堂前面)がある。《当麻曼荼羅(綴織観経変相図)》(763,国宝)の発願者としては当麻氏出身,藤原房成の妻百能(ももの)が考えられ,その叔母光明皇后あるいは宇比良古(藤原房成の女,仲麻呂の室)の追善法会のために造立,施入されたと思われる。平安時代中期以降は曼荼羅堂を中心とした浄土信仰中心の寺に変わり,十一面観音菩薩立像(9世紀末,曼荼羅堂),伝妙幢菩薩立像(10世紀,講堂),十一面観音菩薩立像(10世紀末~11世紀初,西南院),阿弥陀如来座像(12世紀末~13世紀初頭,講堂本尊)など,多くの優れた仏像がある。工芸品では平安時代蒔絵の優品として俱利迦羅竜蒔絵経箱(12世紀,奥院),高麗漆器の数少ない遺品として貴重な螺鈿玳瑁(たいまい)唐草合子(12世紀中ころ),絵画では《当麻曼荼羅縁起》(南北朝),《当麻寺縁起》3巻(1531),《法然上人行状絵巻》(室町前期)などがある。なお,来迎会に用いる28面の仮面は鎌倉時代から江戸時代にかけて製作されたものである。
執筆者:宮本 長二郎
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奈良県葛城市當麻にある高野山真言宗・浄土宗の寺。二上山禅林寺と号す。用明天皇皇子の麻呂子(まろこ)親王が建立した寺院を,天武朝にこの地に移したと伝えるが,当地の豪族当麻氏の氏寺で,奈良時代の創建と考えられる。奈良・平安時代に伽藍が整えられた。1180年(治承4)兵火で一部焼失したが再建された。国宝の東塔・西塔・本堂など寺宝が多い。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…それらの説話の中で役小角は,役行者と呼ばれて修験道と深く結びつけられるようになり,その修行地は生駒山,信貴山,熊野などにひろがり,やがて全国各地の修験道の山が,役行者の聖跡とされるようになった。また,役行者は孝養の心厚く,父母の供養につとめたり,母を鉢に乗せてともに唐に飛んで行ったという説話も生まれ,当麻(たいま)寺の四天王像は役行者の祈禱によって百済から飛んで来たという話をはじめ,当麻寺との密接な関係を説く説話も多い。鎌倉時代中期の《沙石集》には,役行者が金峰山の山上で,蔵王権現を感得したことが記されているが,修験道の本尊としてまつられるようになった蔵王権現を祈り出した役行者は,修験道の開祖とされるようになり,金峰山の山上ヶ岳山頂の蔵王堂の開創者と信じられることになった。…
…当麻(たいま)寺の曼荼羅(まんだら)を織ったとされる伝説上の女性。中将姫の物語を要約すると,継子虐待と当麻曼荼羅の由来にしぼることができる。…
…今もなお二十五菩薩来迎会・同練供養などと称して,弥陀の来迎引接と念仏者の極楽往生を演じる法会があるが,これらは11世紀以降さかんに催された迎講の遺風であり,思想的にも儀礼的にも脈絡を有している。その代表的なものは当麻(たいま)寺の来迎会であるが,ここでは中将姫の往生の場面が演劇化されている。来迎会に必要なものは,舞台としては極楽と現世を表象した極楽堂と娑婆堂,それに両者を結ぶ懸橋,また装具としては仏菩薩の面と装束などである。…
※「当麻寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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