デジタル大辞泉
「郡司成忠」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
ぐんじ‐しげただ【郡司成忠】
- 探検家。海軍大尉。幕臣幸田成延(しげのぶ)の二男。幸田露伴の兄。海軍兵学寮卒。明治二六年(一八九三)、報効義会を結成し、千島占守島(しゅむしゅとう)に上陸して北海の警備と土地開発にあたる。日露戦争中、カムチャツカに侵入したが、戦後沿海州の水産組合長として活躍。万延元~大正一三年(一八六〇‐一九二四)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
郡司成忠
ぐんじなりただ
(1860―1924)
明治後期の軍人、千島開発者。万延(まんえん)元年11月17日幕臣幸田成延(こうだしげのぶ)の次男として江戸に生まれる。成行(しげゆき)(露伴(ろはん))・成友(しげとも)・延子(のぶこ)らの兄。郡司家の養子となる。海軍兵学寮卒業後少尉となり、大尉に累進。1893年(明治26)ロシアに対する北方警備の必要を唱え報効義会(ほうこうぎかい)を設立して、北千島警備と開発を計画し、50人の予備水兵と7隻の端艇(たんてい)(ボート)で東京・隅田川(すみだがわ)を出発。苦難のすえ、占守島(しむしゅとう)に上陸し、千島探検隊の壮挙と喧伝(けんでん)された。1896年ふたたび同島に上陸して開発を行った。日露戦争に際しては同志とカムチャツカに出征したが捕虜となり、戦後は海事・国防思想の普及に努めた。大正13年8月15日没。
[佐藤能丸]
『広瀬彦太著『郡司大尉』(1939・鱒書房)』▽『寺島柾史著『開拓者郡司大尉』(1942・鶴書房)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
郡司 成忠
グンジ シゲタダ
明治期の海軍大尉,開拓者
- 生年
- 万延1年11月17日(1860年)
- 没年
- 大正13(1924)年8月15日
- 出生地
- 江戸
- 旧姓(旧名)
- 幸田
- 別名
- 幼名=金次郎
- 学歴〔年〕
- 海兵(第6期)卒,海大卒
- 経歴
- 幕臣幸田成延の次男で、幼時郡司家の養子となる。明治5年兵学寮に入り軍人の道を歩み始め、12年海軍少尉補となり、海軍大尉にまで昇進したが、26年北方警備と千島開拓を企画して予備役に入り、報効義会を設立、千島占守(シュムシュ)島移住を計画した。同年予備兵50名を率いて占守島上陸を行ったが失敗。一行中には後年日露戦争直前に軍事探偵として活躍、ハルビンで刑死した横川省三も朝日新聞記者として加わっていた。29年家族らと再度上陸し農業開拓、漁業開発に従事。日露戦争ではカムチャツカで戦い、ロシアの捕虜となるが危地を脱し、再び同方面で戦った。戦後帰国して義勇船隊を組織し、海事・国防思想の普及に尽力し、41年沿海州水産組合長に就任。大正3年第一次世界大戦では政府の特殊任務を帯びてシベリアで活動し、9年帰国した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
郡司成忠 (ぐんじしげただ)
生没年:1860-1924(万延1-大正13)
千島開拓に従事した海軍軍人。幕臣幸田成延の次男,幸田露伴の兄。海軍兵学寮卒業。1888年海軍大学校に入校したが北辺警備の観点から千島開拓の必要を感じ,93年海軍大尉で予備役に入り,報効義会を組織,同年3月20日35人がボートに分乗して東京を出発,19人は青森県鮫沖で死亡,16人がシュムシュ(占守)島などに上陸,越年中に10人が死亡,96年さらに60人余りの同志を募り,シュムシュ島付近の漁場の開拓に成功した。日露戦争中カムチャツカに侵入したが,郡司はロシア軍の捕虜となり,戦後帰国,沿海州漁業の振興に尽力した。第1次大戦には特殊任務を受けてシベリアで活躍した。
執筆者:原田 勝正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
郡司成忠
没年:大正13.8.15(1924)
生年:万延1.11.17(1860.12.28)
明治期の海軍軍人。千島探検家として知られる。江戸生まれ。小説家幸田露伴,史学者幸田成友の実兄。郡司家へ養子入り。明治5(1872)年海軍兵学寮入り。8年千島樺太交換条約締結後,ロシアに対する脅威から北方の警備防衛,千島開拓の志を抱く。海軍大尉まで進んだが,自らの志の実現のために同26年予備役となる。報效義会を設立,千島探検に乗り出し,陸軍中佐福島安正のシベリア単騎旅行とともに話題となった。同年に捨子古丹島,占守島に渡り,十数人で自然環境や拓殖方法を調査。29年家族らと共に占守島に移住,漁業を中心とした拓殖活動を行う。日露戦争開戦後,カムチャツカへの進撃を試みたが失敗し捕虜となる。戦後はロシアから獲得した漁業権益発展のため,沿海州水産組合長を務めた。<参考文献>広瀬彦太『郡司大尉』,原暉之『シベリア出兵』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
郡司成忠【ぐんじしげただ】
千島開拓に従事した海軍軍人。幸田露伴の兄。北方警備の重要性を説いて報効義会(ほうこうぎかい)を作り,部下とシュムシュ(占守)島開発に努力。日露戦争ではカムチャツカで戦い捕らえられたが脱出。のち義勇艦隊を組織し海事・国防思想の普及に努めた。
→関連項目白瀬矗
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
郡司成忠 ぐんじ-なりただ
1860-1924 明治-大正時代の軍人,開拓者。
万延元年11月17日生まれ。幸田露伴の兄。千島開拓をこころざし,明治26年海軍を大尉で退役。同年報効義会を組織し,千島列島北端の占守(しゅむしゅ)島に上陸。29年会員,家族らと同島に移住。のち沿海州水産組合長をつとめた。大正13年8月15日死去。65歳。江戸出身。海軍兵学校卒。本姓は幸田。名は「しげただ」ともよむ。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
郡司成忠
ぐんじしげただ
[生]万延1(1860).11.17. 江戸
[没]1924.8.15. 小田原
海軍軍人。幸田露伴の兄。 1879年兵学寮を経て少尉補に任官。 93年大尉で予備役に入り,報効義会をつくり,占守 (シュムシュ) 島を探検して移住し,農業,漁業の開発にあたった。北辺の防衛思想の普及に努めたことで知られる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
郡司 成忠 (ぐんじ しげただ)
生年月日:1860年11月17日
明治時代の海軍軍人;開拓者
1924年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の郡司成忠の言及
【幸田露伴】より
…江戸の,代々幕府に仕えて有職故実にかかわったお坊主衆の家に生まれた。兄に千島探検家の郡司成忠,弟に歴史家の幸田成友,妹に音楽家の幸田延(のぶ),安藤幸(こう)などがいる。少年時から和漢の諸書を耽読し,独自の教養世界の土壌を培った。…
【シュムシュ[島]】より
…パラムシル海峡に面したボイコボ湾(片岡湾,1892年当地を視察した片岡侍従にちなむ)がある。1893年郡司成忠が〈報効義会〉を組織して占守島を調査し,96年にこの地に移住したことで知られる。第2次世界大戦前には千島国占守郡に属した。…
※「郡司成忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」