観音菩薩のかぎりない慈悲の心は白処に住むとするところから,白処尊菩薩とも呼ばれて信仰されてきたが,とくに補(普)陀落山(ふだらくせん)(ポータラカ)中の清流岩上に身をゆだねて思索する瞑想の世界は,白衣に象徴される清澄な境涯とともに禅的境地の顕現として禅宗にとり入れられた。そこでは過去の儀軌にとらわれることなく,三十三身に変化して一切の苦悩を消散せしめ,不吉を転じて吉祥となす観音のもつ自在性が尊重されたのである。水月(すいげつ),滝見(たきみ),楊柳(ようりゆう)といった背景のもつ意味もまたしかりで,すべては禅的精神の表象とみなされた。観音を囲繞する山水樹林も,衆生を包む現世の延長であり,頂上に垂れさがる薛茘(へいれい)は煩悩の象徴であって,修行はこれを払拭するためになされるのである。14世紀ころの初期禅林所縁の白衣観音図の図容は《大方広仏(だいほうこうぶつ)華厳経入法界品》の補陀落山中に安座する姿である。楊柳と水瓶(浄瓶(じんぴん))をともなうのは《請観音消伏毒害陀羅尼経(しようかんのんしようふくどくがいだらにきよう)》の〈楊枝浄水〉を供えて観音を召請する経説に由来する。
《禅林象器箋(しようきせん)》によれば,禅寺において観音像がまつられた場所は衆寮(しゆうりよう)/(しゆりよう)の中央に南面する観音龕であり,衆寮はあらたに掛塔(かた)(入門)する修行僧の受付を行うところである。この衆寮の本尊が補陀落山中の観音龕に座す白衣像であり,彫像から画像に移行した。善財童子の補陀落山訪問の姿はまた,衆寮の本尊にふさわしい。この図容は,中国唐代の画家呉道子(ごどうし)や周昉(しゆうぼう)が水月観音として描出した新様式にもとづくもので,中国から高麗,そして日本に波及した。この白衣観音図を中心として,日本では〈観音猿鶴図〉のように左右に猿鶴(えんかく),漁樵(ぎよしよう),竜虎(りゆうこ),寒山・拾得(かんざんじつとく),山水,花鳥などが意識的に配され,三幅対形式を成立させてくる。猿鶴については中国宋代の禅僧雪竇(せつちよう)和尚が,祖師西来の意を問われたとき〈猿は箇木(こぼく)に啼き,鶴は青霄(せいしよう)に唳(な)く〉と答えた故事による。漁樵また仏法求道の象徴である。白衣観音はまた,高僧の本地ともいうべき意味から鏡中に線刻される例も生じた(鏡像)。
鎌倉時代後期における禅林所縁の白衣観音図は,当初,従来の著色仏画形式の図上に禅僧による頌徳(しようとく)の賛詩をともなったものにはじまり,しだいに菩薩というよりは人間的姿態によって表現され,色彩をはなれて水墨に,筆致も表出的なものに移行する。中国宋・元時代の牧谿,玉澗,日本では南北朝期に黙庵,可翁,良全,愚谿,室町時代になると五山を中心とした禅寺所縁の画僧,たとえば東福寺の明兆(みんちよう)およびその一派の霊彩(れいさい),赤脚子(せつきやくし),相国寺の周文派,鎌倉では仲安真康(ちゆうあんしんこう),祥啓(しようけい)とその一派などを挙げることができる。以来この図容は形式化され,近世へ引きつがれた。
執筆者:衛藤 駿
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…密教の聖観音では,胎蔵界曼荼羅観音院に描かれる,左手に蓮茎を持つ姿の像が多く造られた。変化観音には前述の六観音のほかに白衣観音と水月観音が,画技をよくする禅僧によって水墨画として鎌倉・室町時代に多数描かれた。これらは礼拝の対象となる本尊画とみなされるより筆者の精神の表出が注目されていた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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