原語のサンスクリット〈クレーシャkleśa〉は〈苦しめる〉〈汚す〉という動詞kliśの名詞形であり,〈汚れた心〉〈苦しむ心〉というのが煩悩の原意である。総じて,われわれを悩まし害し誤謬に導く不善の心を煩悩と呼ぶ。仏教の経論にはさまざまの種類の煩悩があげられているが,代表的なものとしては,次のような分類がある。(1)貪(とん),瞋(じん),痴(ち)の3種。(2)貪,瞋,痴,慢,疑,悪見の6種の根本煩悩と,忿(ふん),恨,覆,悩,嫉(しつ),慳(けん),誑(おう),諂(てん),憍(きよう),害,無慚(むざん),無愧(むき),惛沈(こんじん),掉挙(じようこ),不信,懈怠(けだい),放逸,失念,散乱,不正知(ふしようち)の20種の随煩悩。このうち貪(むさぼり),瞋(いかり),痴(無知)の三つは三毒といわれ,われわれの心を汚し毒する三大煩悩である。また,煩悩のゆえに業が展開し,煩悩と業とが原因となって生(苦的生存)が結果するという生死輪廻の因果を仏教は主張する。煩悩のうちでも痴は無明(むみよう)といわれ,宇宙の真理を知らないという知的な心の汚れであり,これが根源的原因となって他の煩悩が生ずるとみるところに仏教の煩悩論の特徴がある。
執筆者:横山 紘一 仏教の経典は煩悩を詳細に分析するが,仏教は煩悩を滅尽することによって心の平静(寂静)を得,解脱(げだつ)と菩提と涅槃(ねはん)を獲得する宗教である。すなわち煩悩は迷(めい)であり惑(わく)であるので,この煩悩を断ち切ることが迷の〈此岸(しがん)〉より悟の〈彼岸(ひがん)〉に到る到彼岸(とうひがん)(波羅蜜多)である。その方法として六波羅蜜(ろくはらみつ)が説かれたのである。これが布施,持戒,忍辱(にんにく),精進,禅定,智慧である。このようにして煩悩を滅尽し欲望を断ち切って,正覚を開いた聖者が阿羅漢(あらかん)(羅漢)というもので,再び輪廻(りんね)の苦に陥らないけれども,これを小乗の覚とするのが大乗仏教である。大乗では煩悩即菩提といい,煩悩に苦しんでいる現実の中に,生きた菩提があるというので,悪人正機(あくにんしようき)という主張も出てくる。煩悩深重(じんじゆう)の悪人ほど阿弥陀如来の救済に真っ先にあずかれるという,常識と矛盾したような教理は,煩悩即菩提と同じ大乗仏教の論理から出たものである。しかし,ここには危険な落し穴もあるわけだから,信仰の確立と衆生済度の菩薩行(ぼさつぎよう)実践という大乗仏教の存立条件が充足されていなければならない。また密教は煩悩を肯定するといわれ,愛染(あいぜん)明王は煩悩即菩提を表示するとされるが,これは即身成仏して,この身このまま仏となった立場からの煩悩肯定であって,厳しい修行と禁欲の実践なしの煩悩肯定は,左道(さどう)密教として排除されてきた。
執筆者:五来 重
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仏教で説く、衆生(しゅじょう)の身心を煩わし悩ます精神作用の総称。クレーシャkleśaというサンスクリット語が中国で「煩悩」「惑」と翻訳されたのであるが、この語は「汚(けが)す」という意味合いももっており、そのために「染(ぜん)」「染汚(ぜんま)」などとも訳された。またこのことばは元来、不善・不浄(ふじょう)の精神状態を表す数多くの仏教術語のうちの一つであったが、やがてそれらの心理作用や精神状態を総称し、代表することばとして使われるようになった。このような広い意味での煩悩には、もっとも基本的なものとして、「三毒」「三垢(さんく)」「三不善根」などといわれる貪(とん)(執着)・瞋(じん)(憎悪)・痴(ち)(無知)がある。これに慢(まん)(慢心)・疑〔(ぎ)、仏教の教えに対する疑い〕・見〔(けん)、誤った見解〕を加えて六煩悩といい、根本的な煩悩とされる。このほか、潜在的な煩悩である随眠(ずいめん)、現に作用している煩悩である纏(てん)、あるいは結(けつ)・縛(ばく)・漏(ろ)など、人間の不善の心理状態を詳細に分析して、きわめて多種多様の煩悩が説かれ、「百八の煩悩」「八万四千の煩悩」などといわれた。これらの煩悩を滅ぼし尽くすことによって解脱(げだつ)することができるのであり、したがって煩悩はあくまで断じられるべき対象として説かれたのである。しかし後世の大乗仏教のなかには、煩悩と悟(さと)りの本質はなんら異なるものではないという、「煩悩即菩提(ぼだい)」を主張するものも現れるに至った。このように煩悩の問題は、悟りの境地と深くかかわるため、重要なテーマとして仏教においてさまざまな形で論じられている。
[池田練太郎]
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…これは現代では心理的影響と考えられるが,有部はこれを物質とみたところに特徴がある。 有部は人間の苦の直接の原因を,誤った行為(業)とみ,その究極の原因を煩悩(惑)と考えた。すなわち人間の存在を惑→業→苦の連鎖とみる(これを業感縁起という)。…
※「煩悩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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