百々村(読み)どうどうむら

日本歴史地名大系 「百々村」の解説

百々村
どうどうむら

[現在地名]白根町百々

御勅使みだい川扇状地の中央部に位置し、東は上八田うえはつた村、南は在家塚ざいけつか村・飯野いいの村、西は有野ありの村、北は六科むじな(現八田村)。村内中央を駿信往還が南北に走る。永禄三年(一五六〇)五月二日武田信玄は鬼野主計亮に百々郷などを与えたという(「武田信玄印判状写」集古文書)。天正九年(一五八一)三月二〇日の武田家印判状(大野家文書)によれば、岩殿いわとの(現大月市)に在番し普請役を勤める代りに郷次の普請役を免除された者のなかに「百々の四郎右衛門」がみえる。翌一〇年八月一一日、内藤又右衛門(正行)ら一一名が百々七〇貫文を含む一二〇貫文を宛行われた(「徳川家印判状写」金桜神社文書)。同年一二月五日には小池監物丞が「百々之内五貫八百文」を含む本給を安堵された(「徳川家康印判状」小池亦内家文書)

慶長古高帳では高二九九石、幕府領、ほかに天神領高一石余がある。


百々村
どうどうむら

[現在地名]柵原町百々

行延ゆきのぶ村の北、和気わけ谷の中心部に位置。北の安井やすい村、東の上間うわま村からの谷川と、行延からの福谷ふくたに川が当地で合流し百々川となる。地字に福谷・皿井さらいなどがある。永禄一二年(一五六九)三月二六日の誕生たんじよう(現久米南町)の御影堂建立奉加帳写(誕生寺文書)に「柱一本壱貫弐百文 百々九郎右衛門尉」とある。元亀二年(一五七一)四月と思われる二九日付の苔口宗十郎宛花房職秀書状(美作古簡集)によれば、和気庄のうち福谷・さらい・小坂こさか・元行名は難波孫左衛門が領していたが、院庄いんのしよう(現津山市)の合戦で討死、一族の難波弥九郎に宇喜多直家より同地の跡目相続が認められた。


百々村
どどむら

[現在地名]彦根市鳥居本町とりいもとちよう

西法寺さいほうじ村の南に続く。鳥居本宿を構成する一村で、中山道沿いに街村を形成。当村で中山道から朝鮮人街道(彦根道)が分岐し、「右 彦根道」「左中山道 京いせ」と刻まれた文政一一年(一八二八)の道標が建つ。室町時代後期から戦国期にかけて、京極氏に仕えた百々氏が本拠とした。百々氏は四国出身の河野通春が嘉吉(一四四一―四四)頃当地に居住したのに始まるといい、応仁の乱の戦功で百々盛通が京極持清から小野おの庄を与えられ、その子盛重は京極高清に仕えたと伝える(「百々系譜」百々文書)


百々村
どうどうむら

[現在地名]加茂町百々

倉見くらみ川右岸の緩斜面に位置し、東は才野谷さいのたに村・中原なかばら村、西は原口はらぐち村、南は楢井ならい村、北は宇野うの村に接する。正保郷帳に高二五四石余、うち田方二二一石余・畑方三二石余とある。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高九〇石余・開高一八石余。「東作誌」も同高で、家数二八・人数一〇〇。天保九年(一八三八)の津山藩領郡村記録では家数二三・人数一〇〇、牛一六。「東作誌」によれば、百姓持林三町八反余、井堰三ヵ所、溜池一ヵ所、産土神は惣道大明神。元禄一一年以降も津山藩領。

「作州記」の古城の項に百々城がみえ、草刈重継抱城とあり、「東作誌」には城山とあって古くは落合おちあい城と称し、本丸・二の丸・小郭などをもつという。


百々村
どうどうむら

[現在地名]境町百々

北は新田につた矢島やじま村、西は木島きじま村。平坦地。村内を江戸道(現県道伊勢崎―深谷線)が走る。永禄八年(一五六五)頃には、金山かなやま(現太田市)城主由良氏の配下、丸橋右馬助が領していた(長楽寺永禄日記)。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二八石余・畑方六六石余。「伊勢崎風土記」に慶安二年(一六四九)村内に市を開こうとしたとある。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別田三町余・畑一一町三反余、ほかに新田として田五反余・畑一六町四反余、家数二九、馬八疋。


百々村
どうどむら

[現在地名]岡崎市百々町

足助あすけ街道に沿い、北は青木あおき川を隔てて東蔵前ひがしくらまえ村・西阿知和にしあちわ村、東は通称赤山あかやまの小高い丘を境に東阿知和村、西はくち村、南は鴨田かもだ村に接し、岡崎より北部に通じる要害の地。「三河堤」などに村内の古城として青山喜大夫・同大膳の在城を記す。天文二年(一五三三)より青山喜三郎領。天正一八年(一五九〇)岡崎藩の封土となって明治に至る。額田手永に属し、享和二年書上には高二二三石余、人別一九一人、うち男八九・女一〇二。


百々村
どうどうむら

[現在地名]田原町六連むつれ 百々

浜田はまだ村ととう村の間に位置して、太平洋岸に面する断崖上にある農漁村。もと幕府領であったが、天明八年(一七八八)以来吉田藩領に属し、天保二年(一八三一)再び幕府領となり、同九年また吉田藩領となった。周囲を田原藩領に囲まれた飛地である。中郷中なかごうちゆうに幕末吉田藩が築いた砲台跡があった。


百々村
どうどうむら

[現在地名]上越市下百々しもどうどう

小泉こいずみ村の南西、飯田いいだ川右岸に位置し、多柄たがら道が通る。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「龍口分此外三方分たうたう村 中」とみえ、本納七八石一斗五升・縄高三三一石一斗六升六合・家九軒・四九人。正保国絵図に百々村とみえ、高一九〇石余。


百々村
どどむら

[現在地名]加賀市百々町・美谷が丘みたにがおか

三谷みたに川と支流曾宇そう川の合流地近くに位置し、村の西方は丘陵地。西は細坪ほそつぼ村。「憩紀聞」に「此の領内に昔沼ありしを二百石の田地に開き、一村出来たる故に百々村と名付る由云伝ふ」と記すが、「加賀志徴」は百々の用字から出た俗説とする。正保郷帳によると高二〇四石余、田方一一町二反余・畑方一町余、物成高八九石余。


百々村
どうどうむら

[現在地名]新井市上百々かみどうどう

せき川西岸に位置し、東は広島ひろしま村、北は寺町てらまち(現上越市)と接する。正保国絵図に高二六七石余とある。明治一九年(一八八六)以前に上百々村と改称した。集落中央付近に浄土真宗本願寺派の青龍山円長えんちよう寺がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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