定数歌の一種。部立(ぶだて)または歌題のもとに1人で百首の和歌を詠んだもの。960年(天徳4)ころ曽禰好忠(そねのよしただ)によって創始されたもので、同時代の恵慶(えぎょう)法師の百首歌の序に、「天徳の末のころほひ、あざな曽丹後(そたんご)といふ人、ももちの歌をさぐり出し……」と記す。春・夏・秋・冬・恋各10首、「あさかやま……」「なにはづに……」の手習い歌の歌詞を上下に据えて並べた沓冠歌(くつかむりうた)31首、十干(じっかん)・神・方位の名を詠み込んだ物名(もののな)歌20首で構成される計101首である。初めに序がつき、不遇に沈む身の訴嘆と無常観が述べられる。これとまったく同形のものを恵慶や源順(したごう)などが好忠に相和してつくっており、百首歌の原型といえよう。わが身の訴嘆・述懐は当時の中下層貴族の心情にかない、多くの人々の共感を得て浸透したらしい。以後の百首歌の展開にもこの特徴は基本的性格として受け継がれ、源俊頼(としより)・藤原俊成らの作品にこの傾向がみられる。一方、源重之(しげゆき)が東宮坊警備の長に任ぜられていた967年(康保4)までの間に百首歌をつくって東宮(冷泉(れいぜい)天皇)に奉り、平安末期の『和歌現在書目録』に百首歌の始と称された。春・夏・秋・冬各20首、恋・恨各10首、計100首である。整然とした組織ゆえに始祖と考えられたのであろう。同目録には相模(さがみ)の名も重之に並べられているが、1023年(治安3)ころ箱根権現(ごんげん)に奉納の百首歌を女性の作ゆえに記したと思われる。四季を初・中・はてに各三分した12題とその他雑8題、計20題を各5首ずつ詠む。
その後、歌題を集めて1組にした組題百首をつくり、後世の範として大きな影響を与えたのは、1105年(長治2)ころ堀河(ほりかわ)天皇に奉った『堀河百首』であり、四季および恋・雑の計100題を各題1首ずつ、百首を14人ないし16人の歌人が詠んだ。そのほか、1116年(永久4)の『永久(えいきゅう)百首』、1150年(久安6)の『久安(きゅうあん)百首』、1190年(建久1)の『五社百首』などが知られ、鎌倉時代にも藤原定家の『藤川(ふじかわ)百首』、室町時代にも1433年(永享5)の『永享(えいきょう)百首』など、天皇・神社への奉献、勅撰(ちょくせん)集編集のための資料、和歌習作の場など、多種多様の目的と性格のもとに詠まれた。
[藤岡忠美]
『藤岡忠美著『平安和歌史論』(1966・桜楓社)』▽『橋本不美男・滝沢貞夫著『堀河院御時百首和歌とその研究』(1976・笠間書院)』
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…全体として好忠の1年間にわたる不遇生活のわびしさが底流となる。好忠百首は好忠によって創出された百首歌の原形といえるもので,序のあと,春11首(流布本),夏,秋,冬,恋各10首,沓冠(くつかむり)歌31首,物名歌20首で構成され,独特な哀感を形成して以後の流行につながった。源順百首は順が応和したもの。…
…父は従五位下兼信。帯刀長(たちはきのおさ)在任中に東宮に献じた百首歌は整った形式の創始期の作として知られる。その後967年(康保4)に従五位下右近将監,さらに左馬助,相模権守等に任ぜられたが,995年(長徳1)ころ陸奥に下り,同地で没した。…
※「百首歌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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