天皇の綸旨(りんじ)または上皇・法皇の院宣(いんぜん)下命に基づいて編集、奏覧された和歌集。10世紀初頭ごろ成った最初の『古今和歌集』から15世紀前半の『新続(しんしょく)古今和歌集』まで21集があるが、最初の3集を「三代集」、最初から『新古今和歌集』までを「八代集」、続く『新勅撰和歌集』から『新続古今和歌集』までを「十三代集」、全体を「二十一代集」とよんでいる。21集で総歌数は約3万3700首になる。なお、14世紀末に南朝側で編まれた『新葉和歌集』は準勅撰和歌集とされ、また、下命者である二条(にじょう)天皇の崩により勅撰集たりえなかったものに、12世紀後半の藤原清輔(きよすけ)撰『続詞花(しょくしか)和歌集』がある。
[藤平春男]
勅撰集の初めは下命者が天皇であったが、やがて院政が行われるようになると、院政をとる上皇が下命者となるので、平安末期から鎌倉時代にかけては上皇下命が多い。花山院あるいは光厳(こうごん)院親撰の『拾遺(しゅうい)和歌集』『風雅和歌集』の2集以外は、1名ないし5名の臣下が撰者を命じられて、選歌、部類(四季や恋などの種類別にすること)、配列や表記の統一などにあたっており、完成時に下命者に奏覧するが、二度やり直しを命じられたため3種類の内容の異なる本の伝わる『金葉(きんよう)和歌集』のような例もあり、『新古今和歌集』などのように奏覧後の改訂の甚だしい集もある。「十三代集」の最後の4集は、皇室衰微の時期に入り、足利(あしかが)将軍の執奏によって発起、成立したものである(その後、足利義政(よしまさ)の執奏により、飛鳥井雅親(あすかいまさちか)を撰者とする企てが着手されたが、応仁(おうにん)の乱で中絶)。
[藤平春男]
勅撰和歌集所収歌の歌体はほとんどが短歌で、わずかに長歌、旋頭歌(せどうか)、連歌(れんが)を加えた集もある。部立(ぶだて)(歌の種類別区分の仕方)は各集ごとに小異があるが、次のような『古今和歌集』の部立が基本的には受け継がれており、巻数も『金葉和歌集』『詞花和歌集』(各10巻)を除き、20巻が継承されている。春(1、2)、夏(3)、秋(4、5)、冬(6)、賀(7)、離別(8)、羇旅(きりょ)(9)、物名(もののな)(10)、恋(11~15)、哀傷(16)、雑(ぞう)(17、18)、雑体(ざってい)(19)、大歌所御歌(おおうたどころのおおんうた)(神遊びの歌・東歌(あずまうた))(20)〔括弧(かっこ)内は巻序〕
のち『千載(せんざい)和歌集』に「釈教(しゃっきょう)」と「神祇(じんぎ)」の部が設けられたが、「大歌所御歌」を除き、『古今和歌集』の部立に「釈教」「神祇」を加えた範囲で「二十一代集」の部立は形成されている。四季と恋および雑が根幹部をなしている点はすべての集に共通している。
[藤平春男]
平安時代初期には『凌雲(りょううん)新集』以下の3勅撰漢詩集が編まれるなど、漢詩文が宮廷社会で尊重され、和歌はその隆昌(りゅうしょう)に圧倒されていたが、社会状勢の変化に支えられた『古今和歌集』の出現によって、和歌は平安中期以降貴族社会での文化価値を認められるようになっていく。和歌の社会的意義は、そこでは生活を美しく彩り情緒に浸らしめることにあったから、『万葉集』の歌が多く現実生活において生じる感動に根ざしていたのと異なり、言語の表現技巧によって人工的に優美な情緒的世界をつくりだそうとする方向を目ざしていた。そのために漢詩文の発想や表現法を吸収する努力も行われたし、屏風絵(びょうぶえ)と結合しての想像力の展開もみられた。『古今和歌集』序には和歌の実態に即した批評意識がみられるが、さらに歌合(うたあわせ)の批評が盛んになるといっそう表現意識が深まって、美意識の深まりとともに表現の巧緻(こうち)さが追求された。「三代集」によってほぼ美的様式の骨格が形成されたといってよく、後世まで勅撰和歌集的な歌風の典型とされている。一方で、社会生活の潤滑油的役割を果たす社交語的和歌が広く貴族生活に浸透していくが、それらは私家集に大きく反映しているし、物語や日記などの散文文学にも、和歌の発達させた繊細な心情表現や社交的会話の働きが色濃く現れている。
[藤平春男]
勅撰集的な和歌は発想、表現が固定化しやすく、すでに12世紀に入るとそこからの脱皮に苦しむが、中世貴族の詩精神は、『新古今和歌集』や京極(きょうごく)派による『玉葉(ぎょくよう)和歌集』『風雅和歌集』に新たな詩的生命の結実を示した。もっとも、表現の類型化した和歌は学びやすく、武家階級も和歌を学んで生活を美化し情緒化する者がしだいに増加していったことに、文化史的意義を認めるべきであろう。
勅撰和歌集は、皇室がその治世の文化的記念碑として編集させるものであったから、貴族社会における各時代各時期の歌風の主潮を反映するのが普通であるし、同時に撰集の基盤はその時代の文壇にほかならないので、各集の性格の究明、成立事情の分析は和歌史ないし文学史の研究には不可欠の課題である。それはさらに、後世への影響をも含めて、文化史的意義の追求にまで及ぶ必要がある。しかし、各集における歌人の扱い方はさまざまの事情によって、かならずしも総括的ではなく、正当と認めがたい(室町中期の代表的歌人正徹(しょうてつ)の歌は勅撰集にはとられなかった)場合もあるから、私家集や私撰集とあわせみることも忘れてはならないのである。
[藤平春男]
『新編国歌大観編集委員会編『新編国歌大観 1 勅撰集編』2冊(1983・角川書店)』▽『和歌文学会編「万葉集と勅撰和歌集」(『和歌文学講座 4』所収・1969/再版・1984・桜楓社)』
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天皇または上皇の命により撰集された和歌集。「古今集」「後撰集」「拾遺集」「後拾遺集」「金葉集」「詞花集」「千載集」「新古今集」「新勅撰集」「続後撰集」「続古今集」「続拾遺集」「新後撰集」「玉葉集」「続千載集」「続後拾遺集」「風雅集」「新千載集」「新拾遺集」「新後拾遺集」「新続古今集」のいわゆる二十一代集をさす。「古今集」から「拾遺集」までを三代集,「新古今集」までを八代集,それ以下を十三代集という。和歌の世界で最も権威ある公的歌集で,和歌史は勅撰集を中心に展開したといっても過言ではない。「新続古今集」ののち,室町幕府の将軍足利義政や足利義尚(よしひさ)が計画した勅撰和歌集はともに実現しなかった。「拾芥(しゅうがい)集」に二十一代集全体の概要の説明がある。1647年(正保4)56冊に一括して刊行。
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…《凌雲新集》(《凌雲集》)1巻(814)は782年(延暦1)から33年間の作品をまとめた近代詞華集で,次いでこの集に漏れたものを含めて《文華秀麗集》3巻(818)が成り,さらに,707年(慶雲4)から約120年間の178人の作者,1000編余の作品を集めて《経国集》20巻(827)が王朝漢文学の一大集成として成った。王朝漢文学は,貞観~寛平期(859‐898)に黄金時代を迎えるが,なぜかそれ以後勅撰詩集は撰進されず,その役割を勅撰和歌集に譲る。 勅撰和歌集は,四季・恋を中核とする形態・組織と王朝的歌風とを確立した《古今和歌集》に始まり,中世後期の《新続(しんしよく)古今和歌集》で終わる。…
…勅撰和歌集の総称。《古今和歌集》から《新続古今和歌集》まで21集あり,天皇1代に1勅撰和歌集という考え方で,21代の天皇の治世にできた勅撰和歌集の意。…
※「勅撰和歌集」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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