福岡県の陶器。開窯は,領主黒田長政あるいは加藤清正に従って渡来した朝鮮の陶工八山(日本名は高取八蔵)によるとされている。黒田家が筑前に入部するのは1600年(慶長5)であり,築窯はこの直後のことと推測されている。初期の窯は遠賀郡岡垣町の上畑窯,直方市の永満寺宅間窯,直方市頓野の内ヶ磯窯,嘉麻市の旧山田市木城唐人谷の山田窯,宮若市の旧宮田町千石唐人谷の千石窯などが知られるが,なかでも内ヶ磯窯は近年全面発掘調査され,かつて唐津焼とみなされていた桃山様式をそなえた褐釉と白濁釉を片身替にかけた茶碗をはじめ,茶入,向付,花生など高級な茶陶をこの地で焼いていたことが判明した。《高取歴代記録》は黒田長政を通じて高取焼の陶工と茶人小堀遠州との交渉を記しているが,そうした史料を裏づける陶片であった。初期に次ぐ高取焼の窯は飯塚市幸袋にある白旗山窯で,1630年(寛永7)から65年(寛文5)まで活動したと伝え,遠州好みの洗練された茶陶(遠州高取)はこの時期に焼造された。1665年に窯は朝倉郡小石原に移り,小石原鼓窯,中野窯が高取焼の系譜をまもった。また西皿山では日用品も焼いた。
執筆者:矢部 良明
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福岡県(筑前(ちくぜん))を代表する近世の陶窯。藩主黒田長政(ながまさ)(1568―1623)が朝鮮半島から招致した陶工八山(やさん)(日本名高取八蔵)に命じて開いたのが発祥とされる。鷹取山麓(たかとりさんろく)の宅間(たくま)窯(直方市永満寺(えいまんじ))がその草創期の窯とされ、続いて内(うち)ヶ磯(そ)窯(同市頓野(とんの))が1614年(慶長19)に築かれた。このほか上畑窯(岡垣町)、山田窯(嘉麻(かま)市)、千石窯(宮若(みやわか)市)などが散在しており、初期の高取焼の窯(古高取)は比較的広範囲にわたっているが、とりわけ内ヶ磯窯の製品は優れており、美濃(みの)焼(岐阜県)の茶陶の影響が強くうかがわれる。1630年(寛永7)には中心的な窯が飯塚(いいづか)市の白旗山に移り、時代の好尚を受けた洗練された器体に、光沢のある褐釉(ゆう)と白濁釉をかけ合わせた独自の作風を樹立した。小堀遠州の影響もあって、茶入(ちゃいれ)、水指、茶碗(ちゃわん)、向付(むこうづけ)、手鉢といった茶具に優作が多く、遠州高取として賞用された。1665年(寛文5)になると窯はさらに奥まった朝倉郡小石原(こいしわら)村(東峰(とうほう)村)に移り、茶器をおもに製して今日に至っている。
[矢部良明]
『立原正秋・林屋晴三監修『探訪日本の陶芸4 高取他』(1980・小学館)』
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…他方,松平不昧が著した《瀬戸陶器濫觴(らんしよう)》では,遠州時代の国焼として高取,薩摩,肥後,丹波,膳所,唐津,備前の7窯をあげており,これらの窯は遠州時代に活動していた窯であった。この二つの資料のうち,共通している高取焼と膳所焼はたしかに遠州との結びつきも深いが,全体として七窯の選択根拠ははなはだあいまいで,信憑性は薄い。【矢部 良明】。…
※「高取焼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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