日本で古墳の外表に飾り立てた石造彫刻の総称。人物および馬形のほかに,甲冑,盾,靫(ゆき),大刀,壺,蓋(きぬがさ)などの器物および鶏をかたどったものがある。もっぱら阿蘇溶結凝灰岩を材料として作り,赤・青・白などの簡単な彩色をのこすものがある。分布は九州北半に集中し,福岡県に岩戸山古墳など3ヵ所,熊本県にチブサン古墳など9ヵ所,大分県に臼塚古墳など2ヵ所がある。ほかに鳥取県石馬ヶ谷(いしうまがたに)古墳にある石馬(角セン安山岩製)を,特例としてこのうちにふくめる。
《筑後国風土記》には,筑紫君磐井(いわい)が生前に作った墓について,石人・石盾各60枚を交互に立てならべて四面をとりまくこと,また墓の北東に設けた別区にも石人を配置し,役人が立っている前方に盗人が裸で地に伏して,盗んだ石猪4頭がそばにある情景をあらわすほか,石馬3疋,石殿3間,石蔵2間もあるなどと記している。さらに磐井をとり逃がした兵士が,怒って石人の手や石馬の頭を打ち落としたとも記す(磐井の乱)。この磐井の墓が八女市にある岩戸山古墳であることは確かで,《風土記》にいう別区も見つかっているが,石人石馬は早く運び出されたので,もとの配列はよくわからない。ただ,いま残る石人には,ひざまずく姿の男女の裸像などもあるから,それらが群像を構成して特別の情景をあらわしていたことは想像できる。なお,石馬は馬具を完備した飾馬をかたどったものがあるが,石猪にあたるものは見あたらない。石殿・石蔵は,あるいは石棺をさすものであろうか。
石人には丸みをもった立体的なものと,扁平な浮彫的な表現のものとがある。前者を円体石人,後者を扁平石人とよんで区別し,そのあいだに年代的な相違を考えようとする説があった。しかし,円体石人の代表例という福岡県の石人山古墳や石神山古墳の石人は,実は器物としての甲冑を表現したもので,人物をかたどったものではない。また,いわゆる扁平石人は,盾または靫の半面に人物像を彫刻したもので,立体的な人物像と同時に使用したものである。甲冑を表現した石人と,人物像である石人との関係は,形象埴輪の場合に,器財埴輪がまず先行し,のちに人物埴輪や馬形埴輪が加わったこととよく似ている。そうして,石人石馬は,人物埴輪などの形象埴輪と同じ古墳で併用したもので,形象埴輪に先行したものではない。むしろ5世紀から6世紀の初めにかけて,特殊な石材の産地で発達した,形象埴輪の地方的な変種と見ることの可能なものである。
執筆者:小林 行雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
5~6世紀代の古墳の墳丘に表飾として使用された石製象形遺物の総称。福岡県5、大分県2、熊本県9、鳥取県1の計17か所の古墳から発見されている。九州の発見例は阿蘇(あそ)系泥溶岩を使用して写実的に彫造されている。種類には人物(武装、裸体)、動物(馬、鶏、水鳥、猪(いのしし))、器財(靫(ゆき)、盾(たて)、刀、坩(つぼ)、蓋(きぬがさ)、翳(さしば)、腰掛)などのほか記録には「石殿」「石蔵」などもある。大分、福岡県では石人や石甲(せきこう)を1~2体立てるあり方が5世紀前半代にまず現れたが、6世紀の岩戸山(いわとやま)古墳では、多くの石製品を墳丘に立て並べている。しかし、磐井(いわい)の反乱後の6世紀中ごろには断絶してしまった。研究史上では中国南朝の王陵前に並べた石人・石獣の影響とされたこともあるが、現在では、畿内(きない)の古墳にみる象形埴輪(はにわ)に源流を求め、加工しやすい石材に恵まれた九州での創造であろうとされる。国・県重要文化財などに指定。
[小田富士雄]
『小田富士雄著『古代史発掘7 石人石馬の系譜』(1974・講談社)』
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※「石人石馬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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