石陽社(読み)せきようしゃ

百科事典マイペディア 「石陽社」の意味・わかりやすい解説

石陽社【せきようしゃ】

1875年河野広中が吉田光一とともに福島県石川村に設立した,東日本民権政社の草分け。1877年河野が組織した三師社とともに自由民権運動を推進し,愛国社第4回大会には河野を代表に送った。1891年自由党福島支部に吸収。その塾の石陽館ではモンテスキュールソーらの著がテキストに使われ,多数の民権家を育てた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石陽社」の意味・わかりやすい解説

石陽社
せきようしゃ

自由民権期の政治結社。1875年(明治8)8月河野広中(こうのひろなか)らが福島県石川に創設した東日本最初の民権結社で、権利意識の研磨を目的とした。結社の背景には、同年4月の「漸次立憲政体の詔勅」があったことがうかがわれる。本社の特色は、財産の多少を問わず入社を許し、社員は尊卑の別なくみな同じ権利をもつ(社則第2条)としたところによく示されており、実際、士族豪農神官、医者など多様な人々が参加、80年ころには社員数200余名を数えるまでに発展した。またその出身地域は県内はもとより宮城山形栃木福井、高知県にまで及び、各地政社との交流や県の民権運動の組織化、統一化に大きな役割を果たした。教育機関として石陽館があったことが確認されているが、活動の状況については不詳である。

[安在邦夫]

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世界大百科事典(旧版)内の石陽社の言及

【河野広中】より

…若松県・三春藩の下級官吏を経て,1873年磐前県副戸長となり,このころミル著・中村正直訳《自由之理》を馬上で読んで発奮,自由民権論者になったという。以後区長などを務めつつ,75年政治結社石陽社を,ついで78年三師社を郷里に組織して,東北地方の自由民権運動の指導者となった。こうした活動を背景に愛国社・国会期成同盟の運動に参加し,豪農層を代表する幹部となった。…

【地方結社】より

… 一方,いわゆる豪農結社は,豪農や豪商などの在地の有力者の支持を背景として結成され,富裕な農民の子弟や教員,記者などの知識人を加えた比較的開放的な構成をとることが多い。著名なものに福島県石川の石陽社(1875年創設,河野広中・吉田光一ら,社員約200),三春の三師社(1878年創設,河野広中・田母野秀顕ら,社員約100,石陽社とともに東日本民権運動に先駆的役割を果たす),南多摩郡原町田の融貫社(1881年創設,石坂昌孝ら,社員150~300),西多摩郡五日市の学芸講談会(1880年以前,内山安兵衛・深沢権八らが中心,いわゆる五日市憲法草案の背景として知られる),松本の奨匡社(1880年創設,松沢求策・上条螘司・市川量造ら,社員1200余),福井県坂井郡の自郷学舎・自郷社(1879年創設,杉田定一が中心,社員115)などがある。これらの豪農結社は,士族の民権運動に対して,在地的農村的な民権運動を結集し,運動全体の性格を変えていくうえに主導的な役割を果たした。…

※「石陽社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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