改訂新版 世界大百科事典 「石黒荘」の意味・わかりやすい解説
石黒荘 (いしぐろのしょう)
越中国砺礪波郡(現富山県南砺市,旧福光町)の荘園。鎌倉時代には10郷からなっており,山田郷・弘瀬郷で1荘,石黒上郷・同中郷・同下郷で1荘,吉江郷・太海(ふとみ)郷・院林郷・直海郷・大光寺郷で1荘というようにわかれ,総称して石黒三荘といった。小矢部川の上流域にひろがる広い荘園で,古代の川上郷の故地にあたる。後三条天皇が1070年(延久2)に建立した御室円宗寺の所領として,そのころ立荘されたものであろう。伝領関係は複雑だが,鎌倉時代には山田・弘瀬郷は円宗寺領,太海・院林郷は醍醐寺領として現れる。荘園全体の田数は不明だが,99年(康和1)に山田が337町1反120歩とみえる。また弘瀬郷は1248年(宝治2)の内検帳に見作田41町2反50歩をみる。弘瀬郷の下司は藤原氏で,先祖定綱のときこの地に柿谷寺を建立して氏寺となし,定直のときこの地を制した木曾義仲より弘瀬村下司職に安堵されている。鎌倉幕府が成立すると,一時,山田郷に地頭職がおかれるが,御室の申入れで停廃された。やがて,下司定直は弘瀬郷の地頭職を主張して領家と争うが,1204年(元久1)の鎌倉幕府の御教書によって地頭としての地位を正式にみとめられた。同時に弘瀬郷公文職の進止も藤原氏の手中に帰した。弘瀬郷の支配をめぐって,これ以後も領家と地頭藤原氏ははげしく争い,62年(弘長2)には幕府のくわしい裁許状が出された。これは荘園の内部事情を如実に示す資料として著名。地頭の氏寺柿谷寺は白山末寺医王山の一宿として北陸山臥の宿所でもあった。小矢部川をはさんだ両岸の地にむかいあうかたちで天満市,高宮市という二つの市庭が地頭によって立てられ,この地域の交易の中心をなした。49年(建長1)には市庭住人がみえる。年貢として,米のほか服綿・漆・山手・河手(材木)などが収取され,新畠の作毛には大豆・小豆・麻・白苧・桑があった。太海・院林両郷は醍醐寺遍智院領として1477年(文明9)まで,広瀬郷は仁和寺菩提院門跡領として70年まで所見する。
執筆者:大山 喬平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報