日本大百科全書(ニッポニカ) 「社会学的国家論」の意味・わかりやすい解説
社会学的国家論
しゃかいがくてきこっかろん
soziologische Staatstheorie ドイツ語
国家の本質を社会集団間の支配・服従関係のなかにみる国家学説。その起源は、近代自然法国家論に反対する保守的国家論のなかに求めることができる。勃興(ぼっこう)期の市民階級の政治論たる自然法国家論は、国家の本質を自然状態における自由かつ平等な個人の自然権のより確実な保障形態としての社会契約に求める規範主義的理論であり、その前提たる自然状態論は歴史的事実に基づくものではなく、理論的仮説にすぎなかった。それを批判する保守主義国家論は、国家の本質を支配関係に求め、その成立を原始時代にさかのぼって歴史的に考察し、「権力としての国家」論を展開、所与の支配関係を弁護した。こうして国家の実体を権力関係に求め、それを歴史的に、あるいはしだいに優勢になってきた自然科学、とりわけ生物学、心理学を援用して実証的に考察しようとする社会学的国家論が誕生した。
社会学的国家論がイギリス、フランスのそれと異なる特殊な展開を示したのは後進国ドイツである。19世紀中葉、いまだ弱体な市民階級は、その要求を自然法国家論の退化したドイツ版の「法治国家論」の形で主張して所与の半絶対主義国家を彼らの意志のコントロール下に置こうとした。そしてこの主張はドイツ帝国創立と前後して支配的な法実証主義を媒介して法律学的国家論として展開され、通説の地位をしだいに獲得していった。これに対抗して当然種々の社会学的国家論が生まれたが、そのなかで、とりわけオーストリアにおけるグンプロビッチを中心に展開された征服国家説は、ゴビノーの人種理論、ダーウィンの適者生存説や進化論、コントの実証主義的方法論を摂取して体系化されており、それがドイツやオーストリアの民族統一国家として遅れた社会的現実を反映している点で特異であり、その影響するところ大であったので、社会学的国家論というとき、通常これをさす場合が多い。強力な人種集団による弱体なそれの征服に国家の起源を、そして後者の前者への同化・融合に国家の発達をみるこの説は、ドイツではラッツェンホーファー、F・オッペンハイマー、G・ザロモンによって発展され、一つの学派を形成した。それは、アメリカのウォード、スモールの社会学やA・ベントリーの政治過程論にも大きな影響を与えており、わが国でも大山郁夫(いくお)や今中次麿(つぐまろ)の政治学はその影響が濃い。
[安 世舟]