社会民主連合(読み)シャカイミンシュレンゴウ

デジタル大辞泉 「社会民主連合」の意味・読み・例文・類語

しゃかいみんしゅ‐れんごう〔シヤクワイミンシユレンガフ〕【社会民主連合】

昭和53年(1978)日本社会党を離党した国会議員らが結成した政党。革新・中道連合政権を目ざして非自民非共産の各党間の橋渡し役を任じたが実現しなかった。平成5年(1993)細川連立政権に参加。翌年に解党し議員は社会党日本新党新党さきがけに散った。社民連

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「社会民主連合」の意味・わかりやすい解説

社会民主連合
しゃかいみんしゅれんごう

1978年(昭和53)3月26日に結成され、1994年(平成6)に解党した政党。略称、社民連。江田三郎(1977年3月社会党離党、同年5月急死)の遺志を継いで結成された「社会市民連合」と、その後、社会党の左翼的部分に反発して離党した田英夫(でんひでお)(1923―2009)らのグループが合流したもの。革新・中道連合政権の実現を目ざし、政界再編成のための「接着剤」となることを自らの使命としたミニ政党。「市民派」と「旧社会党派」の対立新自由クラブとの連携重視か日本社会党との関係緊密化かなど、路線問題についての動揺が絶えなかった。支持率の低下など党勢衰退のなかで、1985年2月、江田五月(さつき)(1941―2021。江田三郎の長男)を代表に選出するなど役員人事を一新し、再出発を図ったが、その後も党勢はふるわなかった。1993年の細川護熙(もりひろ)連立政権の発足に際して江田代表が科学技術庁長官として入閣したが、田前代表は連立政権を批判して離党し、菅直人(かんなおと)副代表は新党さきがけに移った。このようななかでしだいに存在意義が失われ、1994年5月22日、「歴史的使命を終えた」として解党。江田代表と阿部昭吾(しょうご)(1928―2015)書記長は日本新党に合流した後、同年12月の新進党結成に参加した。

藤井 正・五十嵐仁]

『『社民連政党史』(1995・社民連政党史刊行会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「社会民主連合」の意味・わかりやすい解説

社会民主連合 (しゃかいみんしゅれんごう)
Social Democratic Federation

イギリス社会主義復興の先駆となったマルクス主義小政党。略称SDF。1881年ハインドマン主導下に発足した民主連合が84年社会民主連合と改称。同年,党内民主主義と社会主義戦術とをめぐり分裂。W.モリスらは脱退し,エンゲルスの支持を得て社会主義連盟を結成する。連盟がアナーキズムに傾く一方,ハインドマンのSDFは失業者示威運動を組織して戦闘性を強め,革命と改良の中間の道を選んだ。階級闘争理論の偏重が労働党との協力を妨げ,政治的妥協が党内左派の新たな分裂を招いた。1907年社会民主党と改称。11年労働不安の中で独立左派を糾合しイギリス社会党を結成した。第1次大戦中の16年に戦争支持のハインドマン派が脱退して組織した国民社会党は20年SDFを名のり,41年の解党までアングロ・マルクス主義の一翼を担った。反戦派のイギリス社会党は20-21年イギリス共産党結成の主力となった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「社会民主連合」の意味・わかりやすい解説

社会民主連合
しゃかいみんしゅれんごう

日本の政党。1978年1月22日,新党結成準備大会を開き事実上旗揚げした。1977年3月に日本社会党を離党した江田三郎が社会市民連合(仮称)の結成準備を進め,その遺志を継いで同 1977年10月に結成された社会市民連合と,同年 9月に同じく日本社会党を離党した田英夫らが合流し結成した。結成時衆議院議員 3人,参議院議員 3人。綱領では,(1) 新しい自由な社会主義,(2) 社会主義社会への漸進的改革,(3) 平和主義,民主主義,社会主義の理念を掲げ,政治の流動化と再編成を推進し,連合政権時代の発言権を目指した。その後,江田五月が代表に就任し,政治改革の実行を通じて政界再編を誘導しようと積極的に取り組んだ。1993年の衆議院議員総選挙の獲得議席は 4議席ながら,細川護煕連立内閣の与党となり,江田が科学技術庁長官で入閣した。1994年5月解党し日本新党に合流した。

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百科事典マイペディア 「社会民主連合」の意味・わかりやすい解説

社会民主連合【しゃかいみんしゅれんごう】

日本社会党を離党した江田三郎を中心につくられた〈社会市民連合〉に,その後に社会党を離党した田英夫らが合流して,1978年3月結成された政党。革新・中道政党の再編成による漸進的な改革を目ざし,1993年には細川護煕(もりひろ)連立内閣に参加したが,1994年解党して日本新党に合流。
→関連項目細川護煕内閣

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「社会民主連合」の解説

社会民主連合
しゃかいみんしゅれんごう

日本社会党内の左派への反発から離党した江田三郎が結成した社会市民連合を前身として,1978年(昭和53)3月に結成された政党。略称,社民連。発足時の代表は田英夫。社会民主主義を唱えるが党勢は不振。社会・民社両党の合同を軸とした政界再編成の触媒役となることをめざした。93年(平成5)7党1会派による細川護熙(もりひろ)内閣に参加するが,翌年5月22日解党。

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世界大百科事典(旧版)内の社会民主連合の言及

【55年体制】より

… なるほど,スカラピノらが指摘したように,社会党の勢力は,得票率,議席率で自民党の半分程度にすぎず,実態は,〈11/2政党制〉であったが,社会党は,急速な発展を遂げつつあった都市を基盤とし,青年層の強い支持を受け,東京・神奈川などで自民党をしのぎ,議員の平均年齢も自民党議員を下まわるといった点で,〈未来の政党〉としてのイメージを色濃くもち,しかも,国際的な冷戦構造に対応して,国内の革新・平和勢力の結節点を形成し,同党の引き続く躍進は,ほとんど既定の事実とさえみえるといった状況が,自社両党体制の有意性を支えていた。
[野党の多党化]
 しかし,一方で,60年代以降の経済的繁栄,有権者の世代交代,労組組織率の低下,高齢化の進行,他方で72年5月の沖縄復帰の実現,同年9月の日中国交正常化達成に関する日中間の合意成立,それに基づく78年8月の日中平和友好条約の調印,国際政治の多極化動向などの国の内外の政治的・社会的変化を背景に,自社2極体制の有意性が薄れ,1959年末に社会党から離党した西尾末広グループによる60年1月の民社党,77年に同じく社会党を離れた江田三郎グループによる社会市民連合(翌1978年に田英夫グループが合流して社会民主連合と改称)の結成,この間の1964年の公明党の登場などによって,野党の多党化が顕著に進み,自民反対勢力のなかでの社会党の地位は80年代に入ってとみに沈下し,自社両党を軸とする政治運営の枠組みとしての55年体制は,80年代半ばにほぼ崩壊状態に陥った。そのなかで浮彫りにされてきたのが,自民党の一党優位制である。…

【日本社会党】より

…党員数も停滞ぎみで,機関紙《社会新報》日刊化も実現されず,いずれも共産党や公明党から大きく水をあけられ,加えて党の主要な基盤であり実質的に党活動を支え代位してきた総評も民間組合員数では民社党支持の同盟に抜かれ,従来保ってきた野党第一党としての指導性は後退した。 これらの結果,党の方針である全野党共闘も,共産党と公明,民社両党との対立に牽引されて実現せず,公明,民社に接近した副委員長江田が77年3月に離党し,ついで離党した田英夫らは78年3月に社会民主連合を結成するに至る。80年1月,党は前年の総選挙で進出した中道に接近し,共産党を除外する政権構想を採択して社公民路線に踏み切り,2月の第44回大会では〈道〉の見直しを決定したが,党内左右両派の対立は解消せず,飛鳥田一雄委員長の提唱した〈百万党建設〉も進展しなかった。…

【ハインドマン】より

…ディズレーリとマルクスに接触し,チャーチズムの再興を図る。1881年民主連合(1884年社会民主連合と改称)を創設し,《万人のためのイングランド》を書き《資本論》の内容を紹介したが,政治的意見の食違いからマルクスの支持を失う。ロンドンのシティで鉱山開発事業に関係し,フロックコートを着て街頭でマルクス主義を説き,資本主義の先進国イギリスが社会主義でも優位にあると主張した。…

※「社会民主連合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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