自民党を離党した小沢一郎、羽田孜両氏らの新生党、細川護熙氏らの日本新党、創価学会が支持母体の公明党、旧同盟系労組を基盤とした民社党などが合同し、1994年12月に結党した。初代党首は海部俊樹元首相で、幹事長は小沢氏。94年6月に自民と社会党、新党さきがけが連立を組んだことに対抗し、自民に代わる政権担当能力を持つ大政党を目指したが内部分裂。97年12月に分党、解散し、小沢氏は翌1月に自由党を結成した。
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冷戦終結・五五年体制崩壊後の政界再編のもとで、自民党から分かれた羽田孜(はたつとむ)・小沢一郎らの新生党、細川護熙(もりひろ)らの日本新党、創価学会を支持母体にした公明党、旧同盟系労組を基盤とした民社党などが合同し、1994年12月10日に結成され、1997年に解党した政党。初代党首は元首相海部俊樹(かいふとしき)で、幹事長には小沢一郎が就任した。1995年12月の党首公開選挙で、小沢が第2代党首となった。細川連立内閣に加わっていた社会党・さきがけが1994年6月に自民党と連立し、村山社会党首班内閣が生まれたのに対抗したもので、小さな政府、国連安全保障理事会常任理事国入り、生活者優先の政治などの理念を掲げた。
自民党に代わる政権担当能力をもつ大政党をめざし、1995年7月参院選では比例区で自民党を上回るなど、政界再編のなかで一時は国民の期待を集めた。しかし諸党派の寄せ集めで派閥色は残り、小沢一郎の政策や強引な党運営への反発もあり、1996年10月総選挙では156議席にとどまった。創価学会の支持をバックにした小沢の強引な政治手法に反発した羽田孜元首相らは太陽党を結成して離党(その後、民主党に所属)、オレンジ共済疑惑で細川元首相も凝集力を失い、政党支持率では鳩山由紀夫(はとやまゆきお)・菅直人(かんなおと)らが1996年総選挙を機に結成した民主党を下回るまでになった。自民党との保保連合を模索するグループも現れ、一部の議員・党員は自民党に戻った。その結果、1997年12月分党、解散し、小沢党首は1998年1月に自由党を結成した。
[加藤哲郎]
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1994年(平成6)12月10日結党。新生党・公明党・日本新党・民社党などが解党し,衆参両議員214人が参加,政権党の自民党295人につぐ大政党が発足した。初代党首海部俊樹(自由改革連合),副党首羽田孜(つとむ)(新生党),幹事長小沢一郎(新生党)。「たゆまざる改革」「責任ある政治」を綱領に掲げ,自民党支配の打破,新選挙法による小選挙区制への対応などをめざすとした。95年小沢一郎が2代党首に就任。97年12月解党を決定し,翌年1月6党に分裂した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
… その後,細川,羽田孜の非自民連立政権を経て,94年6月に自民,社会,さきがけの3党による村山富市連立政権が成立し,自民党は政権に復帰したが,政党配置図の変転はさらに続いた。まず,94年12月に新生党,日本新党,公明党,民社党が合体して,新進党が結成され,96年1月には自民党主導の橋本竜太郎政権が成立し,同年9月には,さきがけと社民党(1996年1月に社会党は党名を変更)からの離党者を軸に鳩山由紀夫,菅直人を双頭のリーダーとして民主党が作られた。このような政党配置図の変転をさらに刺激したのが,政治改革の一つの成果として94年に導入された衆院議員選挙のための小選挙区比例代表並立制(〈比例代表制〉の項を参照)にほかならない。…
※「新進党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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