武村正義(たけむらまさよし)(1934―2022)ら、当時自由民主党(自民党)に所属していた衆議院議員1~2回生10人が、1993年(平成5)6月に結成した政党。1993年6月18日、宮沢喜一内閣不信任決議案が可決され、衆院が解散された直後に自民党を離党、同月21日に結成、7月の衆院選挙で13人に増やした。代表は武村正義。細川護熙(もりひろ)連立政権の発足にあたっては、武村が官房長官、事務局長の鳩山由紀夫(はとやまゆきお)(その後、民主党)が官房副長官に就任したほか、田中秀征(しゅうせい)(1940― 、1998年離党)が首相特別補佐官になるなど細川首相を全面的に支える体制をとった。党の政治理念として、「自立と責任、社会的公正が貫かれた質の高い、実のある『質実国家』」を目ざすとともに、憲法の尊重、政治的軍事的大国主義の否定、地球環境保全への積極的取組み、抜本的な政治改革の実現を強調。政策面では、国連の強化、国際安全保障体制の整備、新政治首都の建設、行政の抜本改革などを提唱した。しかし、武村らは小沢一郎新生党代表幹事(当時)との対立を深め、1994年4月の細川内閣総辞職を機に閣外協力に転じた。反小沢勢力の自民、社会両党と連携を強め、1994年6月の羽田孜(はたつとむ)内閣総辞職後に、村山富市(とみいち)社会党委員長を首相候補として推し、自民、社会、さきがけ3党による連立政権を成立させた。しかし、1996年夏になると、社会民主党全体との新党合流を主張する武村と、丸ごとの合流に反対する鳩山由紀夫の対立から、鳩山や菅直人(かんなおと)らが離党し、党は分裂にいたった。1996年10月の衆院選では当選者2人の惨敗に終わり、第二次橋本龍太郎内閣には「閣外与党」の立場で臨んだが、1998年6月には閣外協力関係を解消。同年7月の参議院選挙では議席を得られず、9月に事実上解党した。党に残った武村は10月に党名を「さきがけ」に改め、参議院議員の奥村展三(てんぞう)(1944― )とともに党を存続させた。しかし2000年(平成12)の総選挙で武村が落選(滋賀2区)するなどすべての国会議員の議席を失う。2001年唯一地方組織として残っていた「さきがけ滋賀」が民主党滋賀県連と合併、党名も消減した。
[橋本五郎]
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1993年(平成5)6月21日に発足した保守リベラル派の政党。宮沢内閣不信任案可決をきっかけに,自民党から脱党した議員で結成。初代党首武村正義を中心とし,現憲法の尊重,軍事大国化への反対を掲げた。細川・村山・第1次橋本内閣で,連立ながら政権党の一つとなった。96年の民主党結成に所属議員の多くが参加し,分裂。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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