神部神社(読み)かんべじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「神部神社」の意味・読み・例文・類語

かんべ‐じんじゃ【神部神社】

  1. 静岡市葵区宮ケ崎町にある神社。旧国幣小社。祭神大己貴命(おおなむちのみこと)。同境内に鎮座する浅間(せんげん)神社、大歳御祖(おおとしみおや)神社とともに静岡浅間神社と呼ばれる。

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日本歴史地名大系 「神部神社」の解説

神部神社
かんべじんじや

[現在地名]甲西町下宮地

下宮地しもみやじの北部、旧駿信往還から東へ入った地に鎮座。祭神大国主神。旧郷社。「延喜式」神名帳の巨麻こま郡に載る「神部カムヘノ神社」とする説があるがつまびらかでない。中・近世にはもっぱら三輪みわ明神と称し、近代に入って現社号を名乗る。勧請・社殿建立の時期は不明であるが、垂仁天皇の時代に大和国城上しきのかみ大神おおみわ神社(三輪明神。現奈良県桜井市)の分霊が勧請されたと伝え、天皇家が隆盛を誇っていた頃は度々神田の寄進が行われた。保元・平治の乱後は逸見・武田・小笠原の各氏が尊崇したという(甲斐国志)。「社記」によると、武田信虎が加賀美かがみ(現若草町)を攻略した際に兵火に遭い灰燼に帰したが、武田信玄によって再興されたという。この加賀美城攻略というのは、おそらく大井信達との合戦をさすものであろう。当社鎮座地は大井氏の本拠地大井おおい庄に隣接し、またその居城の一つであった上野うえの(現櫛形町)が指呼の間にあり、大井氏との関係が深かったものと思われる。当社の神主今沢氏は弘治年間(一五五五―五八)の今沢石見の代に武田信玄の命で府中八幡宮の神主職についたため兼帯所となり、旧宅には神代を置いたという。

「甲斐国志」によれば、永禄一一年(一五六八)七月五日付の武田家朱印状で神木伐採が禁止されている。


神部神社
かんべじんじや

[現在地名]塩山市上萩原

文珠もんじゆ川南岸の神戸ごうどにある。祭神は神直日神・大直日神・八十枉日神・表津少童命・中津少童命・底津少童命・表筒男命・中筒男命・底筒男命。旧郷社。江戸時代末までは岩間いわま大明神と称し、湯山ゆやま明神ともいった。「延喜式」神名帳にみえる山梨郡「神部カムヘノ神社」を当社に比定する説がある(甲斐国志)。かつて上・中・下の萩原はぎわら村は萩原郷で、それ以前は神戸庄とよばれていたといわれ、その鎮守であったと推定される。湯山明神の名は、社中北方に温泉が湧出し、病気平癒に効果があるとして湯治治療に訪れる人が多かったことによるとされる(社記)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神部神社」の意味・わかりやすい解説

神部神社
かんべじんじゃ

静岡市葵(あおい)区宮ヶ崎町に鎮座。通称静岡浅間(せんげん)神社の域内に同座。大己貴命(おおなむちのみこと)を主神とし、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)および東照宮を配祀(はいし)する。創建年代不詳。初めは主神のみを奉斎、他はのちの合祀。延喜(えんぎ)式内社で、駿河(するが)国総社。いつのころからか、大歳御祖(おおとしみおや)神社、浅間神社と同一境内とされ、鎌倉幕府また江戸幕府によりことに保護された。現社殿は1804年(文化1)幕府の造営。明治の制で国幣小社。例祭4月5日。4月1~5日の廿日会祭(はつかえさい)には徳川家康奉納の稚児(ちご)舞楽が奉納される。

[鎌田純一]

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百科事典マイペディア 「神部神社」の意味・わかりやすい解説

神部神社【かんべじんじゃ】

静岡市宮ヶ崎町に鎮座。旧国幣小社。大己貴(おおなむち)命をまつる。浅間(せんげん)神社大歳御祖(おおとしみおや)神社と同一境内に鎮座。延喜式内社に比定され,駿河国の総社。例祭は4月5日。

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