福谷村
うきがいむら
[現在地名]三好町福谷
現町域の北部にあり、境川が南流する。境川と並行して鎌倉街道が通る。新池・一号池・二号池・清蔵池・西ノ洞池・堂ノ後池一号・同二号・寺田池・狐洞池・杁ノ奥池・大坂池・大沢池・深峡池・新池・唐池・定一〆上池・定一〆下池・新池・新池の一九の溜池がある。「西加茂郡誌」によれば古墳時代の石塚があったと記す。
貞治三年(一三六四)の上葺勧進帳(猿投神社文書)によれば「百文 浮谷郷」とあり、当郷から猿投神社(現豊田市)へ一〇〇文を勧進していることを示す。
福谷村
ふくたにむら
[現在地名]小浜市西津福谷
江戸時代に西津村を構成した一集落。新小松原村の北に位置し、北は甲ヶ崎村。東は天ヶ城山の山裾。西は小浜湾だが主として農業を営む。応永二八年(一四二一)一一月一九日付明通寺寄進札に「福谷 右近」とあり、文明二年(一四七〇)一〇月一八日付羽賀寺寄進札は「西津庄福谷村」と記す。甲ヶ崎地続きに小字鼻ノ脇・鼻塩浜・北塩浜・中塩浜・南塩浜があり、中世以来製塩の行われたことをうかがわせる。永正一六年(一五一九)頃には若狭守護武田元信の別業があったらしく、同年と推定される六月一一日付山東家忠書状(西福寺文書)に「福谷殿様」とある。
福谷村
ふくたにむら
[現在地名]邑久町福谷
虫明村の西、東西に細長く続く断層線谷に沿う。北は八反峠と玉葛山(二六七・三メートル)を境に佐山村(現備前市)、南は間口新田および複雑な海岸線をもつ瀬戸内海、西は才ノ峠を越えて庄田村。虫明往来が通る。寛永備前国絵図に西藻懸村とみえ、高六〇〇石余。正保郷帳には福谷村とあるから、寛永(一六二四―四四)末年には村名替えが行われたものと思われる。「備陽記」では田畑四八町余、家数一三二・人数七六三、三端帆から五端帆の船四、枝村として知尾がある。文化年間の「岡山藩領手鑑」では、直高九九三石余で家老伊木氏の給地。
福谷村
ふくたにむら
[現在地名]大飯町福谷
佐分利川の支流福谷川に沿って東西に長く広がり、北の福谷坂を越えると笠原村(現高浜町)へ出る。「若狭郡県志」に「福谷村属佐分利郷、去小浜五里許也、合上条、佐野路、油利谷等之小村而為福谷村」とあり、現在も湯の谷・上町(上条)・佐野地(佐野路)に人家が集まっている。
文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に「福谷宮七反」とある。「福谷宮」とは村内の式内社伊射奈伎神社をさすが、村域内に古墳も確認されているから、かなり早くから開けた地と推定される。
福谷村
ふくたにむら
[現在地名]西区櫨谷町福谷・狩場台一―三丁目・糀台一丁目・同三丁目・井吹台東町五丁目・井吹台西町一丁目
櫨谷川上流域の友清川との合流地点に位置し、南西は池谷村。旧名は中村(元禄郷帳)で櫨谷庄の中心であった。慶長国絵図に中村とみえる。正保郷帳にも中村とあり、田方二九八石余・畑方七四石余、「はへ山」あり。元禄郷帳に「古ハ中村」と注記して村名がみえる。明石藩領中里組に所属。
福谷村
ふくたにむら
[現在地名]鳥取市大畑
大畠村の南東、北に開く小さな谷の口に集落がある。拝領高六二石余。寛保二年(一七四二)の高草郡村々下札帳写(賀露神社文書)によると生高六九石余、本免六ツ、山札銀三匁五分・藪運上銀三匁を課されている。「因幡志」の家数五。天保一四年(一八四三)の村々人数増減書上帳(加藤家文書)では男一二・女七。嘉永二年(一八四九)の組合帳(同文書)では竈数五、同四年の村々根帳面都治帳(同文書)では人数一七。
福谷村
ふくたにむら
[現在地名]江府町俣野
西流する俣野川流域に位置し、「伯耆志」によると東の俣野村と西の武庫村の中間にあった。寛永七年(一六三〇)の三郡山奉行国谷平右衛門裁許状(加藤家文書)に「福谷村分山境」とあり、四至が記される。正保国絵図に村名はみえない。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」に高五石余、竈数三、かつては南向村と称したとある。
福谷村
ふくたにむら
[現在地名]津和野町長福
長野村の北、津和野川上流に合流する福谷川流域の渓谷低地に立地。明治四年(一八七一)の万手鑑によれば古高一〇六石余、寛永一四年(一六三七)の検地高一四六石余、明治四年の総高一五九石余・反別二七町六反余、家数一九(うち本百姓一五)・人数八七(うち本百姓七三)、牛一七・馬一、米蔵一、紙漉舟一三、鉄砲五。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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