秋田村(読み)あきたむら

日本歴史地名大系 「秋田村」の解説

秋田村
あきたむら

[現在地名]干潟町秋田

万力まんりき村の南西に位置し、寛文期(一六六一―七三)からの椿つばき海の新田開発によって成立した。元禄八年(一六九五)に初めて検地を受け、同年の検地帳(海上町史)によると高一千一四六石余、反別は上田一反余・中田五反余・下田一九町九反余・下々田六一町一反余・悪地下々田三二町八反余、下々畑一町四反余・砂畑四反余、屋敷地七畝余・葭間地二反余・芝間地一四町三反余。なお同検地帳には当村は大寺村下椿新田と記される。同一三年頃の下総国各村級分では高一千一二六石余、幕府領元禄郷帳では高一千一四六石余。万力村などと同様に正徳五年(一七一五)に名主が設けられ、幕府領の新田村として独立した(菅谷家文書)


秋田村
あきたむら

[現在地名]三本木町秋田

北は田園地帯に面し、南は丘陵につながる。北と西は桑折こおり村、南は黒川郡大松沢おおまつざわ(現大郷町)に接する。秋田は飽田あきたに通じ、熟田と同義であるという。しかし寛永一七年(一六四〇)の検地の村高はわずかに一五貫余であった。正保郷帳に田一五貫一五四文・畑二貫二七八文とあり、ほかに同所新田六貫一五九文があり、水損・旱損と注記される。宝永元年(一七〇四)には松山茂庭氏の知行地二三石余があった(「松山茂庭・平渡茂庭朱印状並知行目録」茂庭家文書)


秋田村
あいだむら

[現在地名]中村市秋田

安並やすなみ村の北、うしろ川左岸、後川と田野川たのかわ川が合流した付近にあり、「土佐州郡志」は「中村之北西、南向村、前有後川北連山、東西二町許南北十町許、戸凡二十七」と記す。村の東に石見寺いしみじ山がそびえる。後川上流麻生あそう堰から分流されたむら溝が村内を流れる。

天正一八年(一五九〇)の秋田村地検帳によると検地面積は二三町九反余、屋敷数四四うち居屋敷二六。屋敷のうちには蓮花寺・遍照院が含まれる。一部の散田分、足摺領(金剛福寺領)を除くと、ほとんどが中村衆としての給人の所領である。江戸時代には元禄郷帳によると本田高二三八石余。


秋田村
あきたむら

[現在地名]西区岩岡町古郷いわおかちようふるさと

加古郡六分一ろくぶいち(現稲美町)の南にある。明石藩の開墾策によって元禄三年(一六九〇)から開発が始まった(采邑私記)。元禄郷帳に村名がみえ、高一〇四石余。天保郷帳では高一〇九石余。旧高旧領取調帳の高一六六石余。


秋田村
あきたむら

[現在地名]御前山村秋田

村内を水戸から烏山からすやま(現栃木県那須郡)への街道が横断、四方を山に囲まれる。東は中居なかい村。寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「秋田村」とみえ、「水府志料」の秋田村の項には村の東西一八町・南北一〇町余で、戸数およそ四六、水戸までは八里半とあり、産物として半切紙・延半紙などがあったと記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android