立花北枝(読み)タチバナホクシ

デジタル大辞泉 「立花北枝」の意味・読み・例文・類語

たちばな‐ほくし【立花北枝】

[?~1718]江戸中期俳人蕉門十哲一人加賀の人。別号、鳥翠台・寿夭軒。通称研屋とぎや源四郎。「奥の細道行脚途次芭蕉入門編著山中問答」「卯辰うたつ集」など。

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精選版 日本国語大辞典 「立花北枝」の意味・読み・例文・類語

たちばな‐ほくし【立花北枝】

  1. 江戸前期の俳人。加賀国(石川県)の人。金沢で研刀を業とし、通称研屋源四郎。元祿二年(一六八九)奥の細道行脚の芭蕉を迎え、兄牧童とともに入門、越前松岡まで同行した。その後、再び芭蕉と接する機会はなかったが、金沢の蕉門の中心的存在として活躍した。著「卯辰集」「山中問答」など。享保三年(一七一八)没。

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朝日日本歴史人物事典 「立花北枝」の解説

立花北枝

没年:享保3.5.12(1718.6.10)
生年:生年不詳
江戸前期の俳人。通称は研屋源四郎。金沢に住み,刀の研師を業とするかたわら俳諧に親しむ。元禄2(1689)年,松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中で金沢を訪れた際に入門し,越前丸岡まで行動をともにした。以後加賀蕉門の中心人物として活躍したが,無欲な性格で俳壇的な野心はなかった。自分の家が丸焼けになったとき「焼にけりされども花はちりすまし」と詠み,芭蕉の称賛を得たエピソードは有名で,世俗を離れて風雅に遊ぼうとする姿勢がうかがえる。<参考文献>殿田良作「立花北枝」(明治書院『俳句講座』3巻)

(田中善信)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「立花北枝」の解説

立花北枝 たちばな-ほくし

?-1718 江戸時代前期-中期の俳人。
兄牧童とともに加賀金沢で刀研ぎを業とする。元禄(げんろく)2年金沢をおとずれた松尾芭蕉(ばしょう)に入門,越前(えちぜん)(福井県)松岡まで同行した。芭蕉の教えをかきとめた「山中問答」をあらわした。一時土井姓を名のる。享保(きょうほう)3年5月12日死去。通称は研屋(とぎや)源四郎。別号に鳥翠台など。編著に「卯辰集」「喪の名残」など。
【格言など】馬かりて燕追ひ行く別れかな(「山中集」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「立花北枝」の意味・わかりやすい解説

立花北枝
たちばなほくし

[生]?
[没]享保3(1718).5.12. 金沢
江戸時代中期の俳人。一時,土井氏を名のった。通称,研屋 (とぎや) 源四郎。別号,鳥 (趙) 翠台,寿夭軒。蕉門十哲の一人に数えられる場合がある。加賀の小松の人。金沢に住み兄牧童とともに刀の研屋を営んだ。元禄2 (1689) 年松尾芭蕉に入門。加賀蕉門の先覚者。編著『山中 (やまなか) 問答』 (89) ,『卯辰集』 (91) ,『山中集』 (1704) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「立花北枝」の意味・わかりやすい解説

立花北枝
たちばなほくし

北枝

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世界大百科事典(旧版)内の立花北枝の言及

【北枝】より

…江戸前期の俳人。姓は立花。一時,土井を称した。通称は源四郎。別号は鳥翠台,寿夭軒。加賀小松に生まれ,のち金沢住。兄牧童と刀研ぎを業とする。初め談林系に属したが,1689年(元禄2),金沢を訪れた芭蕉に入門,越前松岡まで芭蕉を送った。《おくのほそ道》には〈所々の風景過さず思ひつゞけて,折節あはれなる作意など聞ゆ〉という北枝評を載せる。91年には,楚常の編んだものに北枝が増補した《卯辰集》を刊行。芭蕉三回忌には義仲寺に参詣し,記念の集《喪の名残》(1697)を編む。…

※「立花北枝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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