竹内村(読み)たけのうちむら

日本歴史地名大系 「竹内村」の解説

竹内村
たけのうちむら

[現在地名]境港市竹内町・竹内団地たけのうちだんち

福定ふくさだ村の南に位置し、東は美保みほ湾に面する。南部に枝村高松たかまつ村がある。地勢は砂地で平坦。村域中央を外浜境そとはまさかい往来が通り、美保湾寄りになだ道が南北に走る。かつて当地の薬師堂付近に村民のなかの本願主であった一五軒の家があり、「堂家中」といわれていたが、のち「竹内」と改めたとする伝えがある(「諸事書上帳」足立家文書)。村は戦国時代末からの開発と考えられる。尼子氏の家臣足立右馬之丞の子孫足立善右衛門が文禄年間(一五九二―九六)に帰農したとされる(同書上帳)。慶長二年(一五九七)三月一九日の雲伯境目証文(伯耆志)に「竹内村庄屋善右衛門」の名がみえる。

藩政期の拝領高は一二九石余。寛永一五年(一六三八)の高一四一石余、免四ツ、物成のほかに塩運上米一〇石・浦役銀一〇三匁・鳥役銀一〇匁を納めた(「土免状」村田家文書)


竹内村
たけのうちむら

[現在地名]富山町竹内

市部いちぶ村の南東に位置し、房総往還が通る。竹之内・竹野内とも記した。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高一九三石余、うち田方一二九石余。里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳では藤井美濃御前知行。里見氏改易後の領主の変遷は、寛文八年(一六六八)勝山藩領となるまでは久枝くし村に同じ。以後同藩領として幕末に至る(元文村高帳・旧高旧領取調帳など)正保郷帳では田高一三〇石余・畑高六五石余。


竹内村
たけのうちむら

[現在地名]赤碕町竹内

勝田かつた川中流域に位置し、北は分乗寺ぶんじようじ村。「伯耆民談記」には当村は船上せんじよう山の「食地なる故一切の諸用を達す」とある。拝領高は三四〇石余、本免は五ツ一分。藪役銀五匁を課されており(藩史)、津田氏の給地であった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高三〇七石、竈数一八。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三七四石余、竈数二八。


竹内村
たけのうちむら

[現在地名]智頭町早瀬はやせ

慶所けいじよ村の南西に位置し、土師はじ川に大屋おおや川が合流する辺りに集落が発達する。備前街道が通る。享禄二年(一五二九)四月一九日の木原元信抱分下地巨細日記(因幡志)によると木原きのわら名を拠点とする木原元信の伯母(幼名さいとく女)が娘時代に元信の祖父より譲られた地に「竹之内名」がある。同名はのちに木原惣領家の進退する所となったため、同所の公方御公事のうち三分の一は元信の子木原亀松が木原名のうちから出すことなどが定め置かれている。


竹内村
たけのうちむら

[現在地名]舟橋村竹内

白岩しらいわ川左岸、支流八幡はちまん川・ほそ川と白岩川との合流点に位置し、東は舟橋村、西は下国重しもくにしげ村と稲荷いなり村、南は海老江えびえ村。地名はかつて竹内殿という公家が住んでいたことに由来するという(越中志徴)。正保郷帳では高三三〇石余、田方二〇町七反余・畑方一町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四〇一石、免五ツ三歩、小物成は野役二〇匁・鮭役四匁(三箇国高物成帳)。元禄二年(一六八九)の減高八七石、同一三年の増高一二石、享保八年(一七二三)の増高五石、延享元年(一七四四)の増高一石があり、天保一一年(一八四〇)の高三三二石、免五ツ三歩(「高免帳」杉木家文書)。同九年の家数二五・人数一三四、馬八、文久三年(一八六三)の家数三〇・人数一七一、馬一(佐々木家旧記)


竹内村
たけのうちむら

[現在地名]山田町竹之内たけのうち

黒部くろべ川中流左岸に位置し、北は同川を挟んで川上かわかみ村、西は米之井こめのい村。田部日宮たべひのみや神社の慶長三年(一五九八)銘の棟札に「竹之内村大工棟梁山中勘右衛門」「竹之内村名主年番中」とみえる。江戸時代の領主の変遷は寛永一六年(一六三九)から天保九年(一八三八)小見川藩領上知までは田部村に同じ。同年遠江浜松藩領となり(弘化二年関東取締出役控帳など)、弘化三年(一八四六)より再び小見川藩領(旧高旧領取調帳など)元禄郷帳では高四八二石余。弘化二年には家数五〇(関東取締出役控帳)。慶長期と元禄三年(一六九〇)に堰が設けられ、村内には小見川藩の御林として一町三反余があった。


竹内村
たけのうちむら

[現在地名]野津原町竹矢たけや 竹ノ内

肥後街道沿いに野津原村の南西に位置する。矢貫やぬきには同街道の石畳道が残る。「肥後国誌」では当村を矢野原やのはる村のうちとし高二三一石余、下矢野原村・矢貫村・塩地蔵しおじぞう村などの小村を記す。当村に続いて長竹ながたけ村高四二石余が載る。矢貫権現宮・天満宮がある。「豊後国志」も当村を矢野原村の枝郷とする。天保二年(一八三一)の「野津原手永略鑑」によると惣高二七八石余、うち本方二〇五石余、免は六ツ余、下羽したは村高二六石余、免は六ツ二分余、長竹村高四二石余、免は五ツ八分余。揚酒屋一軒があった(阿部家文書)


竹内村
たけのうちむら

[現在地名]湯川村桜町さくらまち

南は堰堀を郡界とし会津郡中森台なかもりだい(現会津若松市)、北は森台村に続き一街村をなし、南の中森台村とともに米沢街道に沿う。慶長一三年(一六〇八)にこの街道が米沢街道の本通りになったため、現在地より東北にあった当村は元和年中(一六一五―二四)現在地に移った。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二七五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android