竹林の七賢(読み)チクリンノシチケン

デジタル大辞泉 「竹林の七賢」の意味・読み・例文・類語

ちくりん‐の‐しちけん【竹林の七賢】

中国代に、俗塵ぞくじんを避けて竹林に集まり、清談を行った七人隠士阮籍げんせき嵆康けいこう山濤さんとう向秀しょうしゅう劉伶りゅうれい阮咸げんかん王戎おうじゅうをいう。日本では、近世障屏画しょうへいが主題として取り上げられた。

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精選版 日本国語大辞典 「竹林の七賢」の意味・読み・例文・類語

ちくりん【竹林】 の 七賢(しちけん)

  1. 中国の晉代に、俗世間をさけて竹林に集まり、酒を飲み琴をひき、清談をした七人の隠者、阮籍(げんせき)嵆康(けいこう)山濤(さんとう)向秀(しょうしゅう)劉伶(りゅうれい)阮咸(げんかん)王戎(おうじゅう)の称。
    1. [初出の実例]「請傾茅戸之一盃。可竹林之七賢也」(出典:明衡往来(11C中か)下本)
    2. [その他の文献]〔晉書‐嵆康伝〕

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百科事典マイペディア 「竹林の七賢」の意味・わかりやすい解説

竹林の七賢【ちくりんのしちけん】

中国,三国魏(220年―265年)の末期河南省北東部一帯の竹林で,しばしば集まって,清談(せいだん)を行った7人の賢人阮籍(げんせき),【けい】康(けいこう),山濤(さんとう),向秀(しょうしゅう),劉伶(りゅうれい),阮咸(げんかん),王戎(おうじゅう)で,阮籍が中心であった。酒と音楽を愛し,老荘の虚無を尊び,儒教の礼節をしりぞけた。当時の社会的不安からの逃避と儒教の経学・訓詁(くんこ),偽善的汚濁への反発があったとみられている。彼らの思想と行動は,のちの貴族社会に多くの模倣者を生んだ。
→関連項目阮咸竹林抄六朝文化老荘思想

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹林の七賢」の意味・わかりやすい解説

竹林の七賢
ちくりんのしちけん

中国の後漢(ごかん)末から魏(ぎ)を経て西晋(せいしん)に至る間(2世紀末から4世紀初め)に、文学を愛し、酒や囲碁や琴(こと)を好み、世を白眼視して竹林の下に集まり、清談(せいだん)を楽しんだ、阮籍(げんせき)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、阮咸(げんかん)(以上河南省)、嵆康(けいこう)(安徽(あんき)省)、劉伶(りゅうれい)(江蘇(こうそ)省)、王戎(おうじゅう)(山東省)の7人の知識人たちに与えられた総称。彼らは、魏晋の政権交替期の権謀術数の政治や社会と、形式に堕した儒教の礼教を批判して、偽善的な世間の方則(きまり)の外に身を置いて、老荘の思想を好んだ方外の士である。彼らの常軌を逸したような発言や奇抜な行動は、劉義慶(ぎけい)の『世説新語』に記されている。そこには、たとえば、阮籍は、母の葬式の日に豚を蒸して酒を飲んでいたが、別れに臨んでは号泣一声、血を吐いた、とある。彼らの態度は、人間の純粋な心情をたいせつにすべきことを訴える一つの抵抗の姿勢であり、まったくの世捨て人ではなかった。すなわち、嵆康は素志を貫いて為政者に殺され、山濤は出仕して能吏の評判が高かった。

[宮澤正順]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「竹林の七賢」の意味・わかりやすい解説

竹林の七賢
ちくりんのしちけん
Zhu-lin qi-xian

中国,3世紀後半に河南省の竹林に集って遊んだ阮籍王戎,山濤,向秀,嵆康,劉伶,阮咸の 7人をさす。彼らは,老荘道家の思想(→老荘思想道家)の影響を受けて,礼教を軽視し,世俗に背を向けて,竹林で気ままな生活を送ったと伝えられる。虚無厭世家の集団ともいわれ,清談の象徴的人物とみなされている。しかし,そのような見方は,西晋(→)の滅亡の原因を道家思想に転嫁しようとしたときに生まれた虚構の伝説である。実際には,七賢の大部分は高級官僚としての定職にあったのであり,竹林に遊んだという史実は見出せず,タケの林は北中国には存在しない。しかし,後世になると,世俗のわずらわしさから逃れて生きた賢者の集団として,中国人の生き方の一つの理想像となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「竹林の七賢」の解説

竹林の七賢
ちくりんのしちけん

3世紀,魏・晋の7人の老荘思想家
阮籍 (げんせき) ・嵆康 (けいこう) ・山濤 (さんとう) ・向秀 (しようしゆう) ・劉伶 (りゆうれい) ・阮咸 (げんかん) ・王戎 (おうじゆう) の7人が竹林に会して清談にふけったという伝説にもとづく。彼らは年齢・住地が異なり,一か所に会合することは不可能であるが,ともに老荘思想の実践者,また当時の世相や形式道徳の批判者として名声をあげた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「竹林の七賢」の解説

竹林の七賢(ちくりんのしちけん)

魏晋の清談家,阮籍(げんせき),嵆康(けいこう),山濤(さんとう),向秀(しょうしゅう),劉伶(りゅうれい),阮咸(げんかん),王戎(おうじゅう)をいうが,7人が仲間をなしていたわけではない。阮籍,嵆康らは反俗的態度を貫いたが,山濤,王戎らは高官に登った。

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改訂新版 世界大百科事典 「竹林の七賢」の意味・わかりやすい解説

竹林の七賢 (ちくりんのしちけん)

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世界大百科事典(旧版)内の竹林の七賢の言及

【嵆康】より

…譙国(しようこく)銍(ちつ)(安徽省)の人。友人阮籍(げんせき)と並んで,〈竹林の七賢〉の中心的な存在だった。司馬氏の簒奪があらわになってきた魏末の世にあって,歯に衣(きぬ)着せぬ鋭い論調によって偽善的な風潮を敢然と批判した。…

【阮籍】より

…陳留(河南省)の人。嵆康(けいこう)とともに〈竹林(ちくりん)の七賢〉の中心的な存在で,常識の意表をつく奇矯な発言と奔放な態度で世人を驚かせたが,その裏には社会の偽善や退廃に対する逆説的な批判精神がこめられていた。司馬氏の簒奪(さんだつ)が進められる魏末の恐怖政治下にあって,目覚めた意識を持つ者としての苦悩をつぶさになめながら,韜晦(とうかい)した生きかたを貫き通した。…

【酒】より

… そのころすでに居酒屋も存在した。司馬相如がかけおちした卓文君と酒場をひらいたことは有名な逸話であり,〈竹林の七賢〉たちが行きつけの居酒屋の名は〈黄公酒壚(黄おやじの酒場)〉であった。〈竹林の七賢〉は名うての酒徒のあつまりであって,たとえば山濤(さんとう)は8斗飲んで初めて酔い,劉伶(りゆうれい)は5斗を迎え酒とした(七賢人)。…

【七賢人】より

…【藤縄 謙三】(2)中国,三国の末期,放達の行為で知られた7人の自由人,すなわち阮籍(げんせき),嵆康(けいこう),山濤(さんとう),王戎(おうじゆう),向秀(しようしゆう),阮咸(げんかん),劉伶(りゆうれい)。一般に〈竹林の七賢〉とよばれるのは,嵆康の郷里の山陽(江蘇省淮安県)の竹林にあつまって酒をくみかわし,談論にふけったからである。かれらはひとしく酒を愛した。…

※「竹林の七賢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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