中国の後漢(ごかん)末から魏晋(ぎしん)南北朝時代に盛行した超俗的清雅な談論のことで、清言玄談などともいう。その起源は、後漢末に儒学の徒が宦官(かんがん)の跋扈(ばっこ)に対して行った人物批評を伴った政治批判の発言の清議とよばれるものや、同じころに汝南(じょなん)(河南省)地方で郭泰(かくたい)や許劭(きょしょう)らが朔日(ついたち)に行った人物品評(月旦(げったん)評)などにある、といわれる。これらの議論はやがて、為政者による抑圧や老荘思想の流行に伴って、『老子』『荘子』『易』や仏教を中心とする議論に変化していった。魏の正始(せいし)年間(240~248)の王弼(おうひつ)と何晏(かあん)が、聖人における喜怒哀楽の感情の有無についての清談を交わしたことは、「正始の音」として有名である。その後知識人は、社会不安から現実逃避の傾向を強め、儒仏道の高遠な知識に基づく機知によって遊戯的な雰囲気のなかでお互いの交遊を深めつつ、為政者や世俗の形式的な礼教に反抗する清談を行った。西晋時代には、門閥出身の高官王衍(おうえん)が清談を好み、清談は貴族にも好まれて、清談によって出世を計ろうとする傾向まで生まれた。東晋以後は、仏教哲学も取り入れてますます盛んになり、主客(報告者と反駁(はんばく)者)に別れて行う公開討論の形態へと進んだ。魏晋の清談のようすは劉義慶(りゅうぎけい)の『世説新語』にみえる。その後、清談は、だんだんと討議談論の風を失い、形式化して、隋(ずい)には衰えた。しかし、清談による哲学的思惟(しい)や論証は、儒仏道三教思想の深化や形式美を重視する六朝(りくちょう)文学の展開などの面で、寄与するところがあったとされる。
[宮澤正順]
『『清談』(『青木正兒全集 第一巻』所収・1970・春秋社)』▽『村上嘉実著『清談』(『六朝思想史研究』所収・1974・平楽寺書店)』
中国六朝時代に流行した談論。後漢時代には時事評論や人物批評(月旦)が〈清談〉とよばれたが,しだいに貴族のあいだで行われる談論がこの名でよばれるようになった。麈尾(しゆび)とよぶ払子(ほつす)を手にとって講座にのぼった清談家は,論理の整合性と言語表現の才知をきそいあい,現実から遊離した虚談であるとの一部の批判にもかかわらず,西晋の王衍(おうえん)や楽広(がくこう)たちを先駆者としておおいに流行した。清談でとりあげられたテーマは,《荘子》の逍遥遊(しようようゆう)の解釈,音声と人間の感情の関係にかんする〈声無哀楽論〉,言語は思考を十全につたえうるかどうかにかんする〈言尽意不尽意論〉,人間の才能と本性の関係にかんする〈才性四本論〉,服食養生にかんする〈養生論〉など,いわゆる玄学にかかわる問題を主とし,のちには仏典や儒家の経書にかんする問題もとりあげられた。《世説新語(せせつしんご)》には清談の情景を生き生きとつたえる記事がすくなくない。
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執筆者:吉川 忠夫
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漢の選挙で儒家的基準から人物を評価するのを清議といい,清談も同義であった。漢末の清議弾圧と礼教への懐疑,選挙の改革とあいまって,老荘思想による人物論を生じ,さらに虚無を論ずるのを清談と称するに至った。この風は魏の何晏(かあん),王弼(おうひつ)に始まり,竹林の七賢の阮籍(げんせき),嵆康(けいこう)のように世事を逃れて自由な行動をとる者も出たが,晋以後は上流貴族社会の流行となった。
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