日本歴史地名大系 「篠山城跡」の解説
篠山城跡
ささやまじようあと
〔築城と規模〕
慶長一三年(一六〇八)常陸国
正保笹山城絵図(内閣文庫蔵)には南北五六間・東西四五間三尺とあり、平山城と記される。城の総構えは東外六町一〇間・西外九町七間・南外九町六間・北外六町四〇間で、本丸は東で南北五三間、西で南北五〇間、南で東西二七間、北で東西五〇間半、天守土台は東西九間半・南北一〇間五尺、天守多聞は東西二四間半・南北二七間の規模とされる。天守閣は築造されていなかった。本丸の北に位置する二の丸堀外法は東一町二九間(堀の広さ七間)、東西一町三一間(堀の広さ六間半)で、城主の居館が置かれ、その付近に大書院が設けられた。棟の高さ一二・八七メートルで、甍のうねりと千鳥破風、北側には車寄せを設けていた。本丸の東にある三の丸外法は東で南北三町四七間(堀幅二四間)、南で東西三町三六間半(堀幅一四間)、西で南北三町三六間(堀幅二四間)、北で東西三町二三間半(堀幅二〇間)であった(「篠山城記」渋谷家文書、万治三年「石川正西聞見集」本郷図書館蔵、前掲篠山旧記御城取立など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報