米良荘(読み)めらのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「米良荘」の意味・わかりやすい解説

米良荘 (めらのしょう)

宮崎県中部を東流する一ッ瀬川の上流一帯を指す地域名で,米良山地ともいう。行政的には西都市東米良地区と児湯(こゆ)郡西米良村に属する。山地は中生代の四万十(しまんと)層群に属する粘板岩砂岩を主体にした九州山地を一ッ瀬川の本・支流が浸食したもので,高い所で標高1000m内外であるが谷の傾斜が急で,古くから北方の椎葉とともに平野部から隔絶した地域として隠田集落的性格をもち,独特の民俗を有した。古い時代の歴史は不詳であるが,15世紀初め肥後の菊池氏が後醍醐天皇の子孫を奉じてこの地に入山し,米良氏と改姓して支配したといわれる。伊東氏が日向の地頭として勢力を張るとその支配下に入ったが,近世には肥後の人吉藩領となり,米良氏はこの地の管理を委嘱された。1943年に国道219号線が一ッ瀬川の谷に沿って熊本県に抜けてからはダム発電所が建設される一方で,過疎化が進行している。この地に広く行われる米良神楽は有名。
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住民は林業狩猟のほか行商を営み,焼畑を開いてヒエアワ,いも,陸稲などを輪作し自給生活を営んだ。それらに伴う歌謡や祭儀には古代をしのばせる民俗が残存し,ことに焼畑を開く場合に伐採しえない大木の枝を切除する木おろし作業とそれに伴う歌謡はよく知られている。木おろしでは,朝の作業歌を歌って大樹に登ると夕方作業を終えるまで地に降りず,木から木に移るにはさおを用いてそれを伝わって移動し,飲食や排泄も樹上で行う。小水は携えた竹筒を使用した。終わると木から降りたときの作業歌を歌い山の神に感謝を捧げる。これらは田植における田植歌儀礼に対応するもののようである。また,竜房山の銀鏡(しろみ)神社は狩猟者の信仰が厚く,祭神は山の神と考えられ,祭礼ではこれに狩りの獲物を供え,終夜舞楽を奉納し最後に猪狩りのわざおぎを演じて終わる。狩りの作法のなかには古式を伝えると思われるものが多く,そのいくつかは〈狩の巻〉または〈西山小猟師一流〉と称する秘伝書に記されたものと共通するところが少なくない。行政上の役人の呼称に中世的名称のべんざし(弁済使)と呼ばれるものがあったのも古い生活の残存を示すといえよう。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「米良荘」の意味・わかりやすい解説

米良荘
めらのしょう

宮崎県中西部、児湯(こゆ)郡西米良村、西都市(さいとし)東米良地区にあたり、九州山地内にある隠田(おんでん)百姓村。米良山ともいう。一ツ瀬(ひとつせ)川上流部に位置し、市房(いちふさ)山(1721メートル)、石堂(いしどう)山(1547メートル)などがそびえる。集落は山腹の緩斜面に散在し、本流、支流に沿う中心的な集落は村所(むらしょ)、小川(おがわ)、銀鏡(しろみ)、尾八重(おはえ)があげられる。山間に村を形成したのは中世ごろで、肥後(ひご)の豪族菊池(きくち)氏一族が逃れて入山し、米良姓を名のった。江戸時代は人吉藩(ひとよしはん)に属したが、米良氏は交替寄合(よりあい)家として譜代(ふだい)大名の待遇であった。米の石高(こくだか)はきわめて少なかった。山村の生活は焼畑、林業、狩猟などで、米良山は将軍家が狩に使う鷹(たか)の産地として鷹巣山(たかのすやま)にも指定されていた。領主館は小川にあったが、現在は村所が中心地になっていて、菊池記念館、歴史民俗資料館がある。

[横山淳一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「米良荘」の意味・わかりやすい解説

米良荘
めらのしょう

宮崎県西部,一ツ瀬川上流域一帯の地域名。江戸時代は肥後の人吉藩領であった。行政上は西米良村,木城町と西都市東米良地区に属する。九州山地中にあり,1943年に国道 219号線が通じるまではまったくの隔絶地域であった。落人伝説が伝えられ,独特の歌謡や風習が伝承されているが,バスが通じ,ダムや発電所が建設されて変容が著しく,昔の姿は消えつつある。

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