改訂新版 世界大百科事典 「粟津橋本供御人」の意味・わかりやすい解説
粟津橋本供御人 (あわづはしもとくごにん)
近江の粟津・橋本(現,大津市)に居住し,朝廷の内膳司に属して天皇の膳部の食品貢納を任務とした集団。平安後期に淵源し,皇室料地である御厨(みくりや)の荘園化によって従来の贄人(にえびと)が再組織されたものといわれる。1274年(文永11)には京都の六角町に進出して,店舗4軒を経営し,琵琶湖産のコイ,フナ,フナずしなど魚介類の販売を始めていた(六角供御人)。彼らは漁民であると同時に商人として他郷に早くから進出し,公家役のいっさいを免除されるとともに,諸国往来の自由通行権をも獲得した。この特権の魅力で,湖南の漁民らは争って供御人に加入し,南北朝後期には松本・南郷から大江・大萱(いずれも現,大津市)に至る広大な区域の漁村が彼らの基盤となった。室町中期ごろには,内膳司の機能が御厨子所(みずしどころ)に吸収され,御厨子所別当を兼ねていた公家の山科家による供御人の支配が確立した。室町期に多くの荘園が解体した中で,粟津供御人が繁栄に向かったのは,第1次産業から第3次産業への転換に成功したからで,以後積極的に流通機構の掌握に乗り出していく。1414年(応永21)には他国産の商品・絹布類の販売を始め,81年(文明13)には本所山科家が庭田家との紛議に勝訴し,大津東西浦の供御人も傘下に収めた。供御人居住地の拡大に伴って取扱営業品目も多様化し,1471年には竹,翌年には青物,91年(延徳3)には莚・摺鉢・箸・木履・笊籬・石灰等の販売まで行っていたことが知られる。従来これらの品を取り扱っていた座の本所であった荘園領主はいっせいに山科家に訴訟を提起したものの,同年10月の幕府の裁許によって粟津供御人の勝訴に終わっている。戦国期は〈魚物座〉を称して魚介類の専売権を認められ,塩・塩合物(しおあいもの)(塩引の魚類)も応仁・文明の乱後には販売品目に加え,供御人らは山科家に公事銭と称する座役を納入して専売権,自由通行権を保護された。織豊政権の商業政策によって解体された。
→供御人 →贄
執筆者:今谷 明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報