死者の遺骨を霊場に納めて,その魂の成仏鎮魂を祈ること。7世紀末から8世紀初頭に,仏教葬である火葬の採用からはじまった。弥生時代中期の東日本には,洗骨後,骨を壺に入れて土壙に葬る再葬墓がみられるが,一次的,地域的なもので,日本に本来死体崇拝や遺骨崇拝はなかったから,納骨の風は仏教の影響とすることができる。その初期においては特定の霊場に納めたのではなく,なにかゆかりのある山に納めたもので,最古の納骨器は京都市西京区大枝塚原町山林から出た慶雲2年(705)の墓誌銅版を伴う青銅製蓋付桶型蔵骨器である。このような蔵骨器,骨壺は奈良時代のものが多数発見されており,青銅製のほかに陶製,銀製,ガラス製,石製,木製などがある。これらはとくに霊場に納めたものでないが,霊場としては《類聚雑例》に,921年(延喜21)中納言源当時の遺骨を粉にして一器に入れ,東山住僧蓮舟法師の私寺屋に安置した,とあるのが古い。これは京都東山が霊場で,修行者や念仏聖(ひじり)のあつまるところだったので,その1人の住坊に預けて供養せしめたものである。このようなところから,遺骨はゆかりの寺に安置するようになり,《類聚雑例》にも一条天皇の遺骨は円城寺に納め,後一条天皇の遺骨は浄土寺に納めたなどの記事が出ている。しかし,一般庶民は特定の納骨寺院をもつことはできなかったので,霊場納骨をおこなうようになるが,その霊場は多く山岳霊場で,死者の霊魂の行く山という信仰のあるところであった。そのような霊場信仰のある山には,おのずから修行者が住みやがて住坊が霊場寺院となるから,納骨はその霊場寺院に納める形になる。しかし山に納骨した風も出羽三山の月山(がつさん)に見られ,月山では山頂(阿弥陀如来をまつった)に納骨していた。明治初年の神仏分離以来それを禁止したところ,登山者はかってに山頂の月山神社周辺や9合目の賽の河原に埋骨していくので,現在は神社境内に祖霊社を設けて,神官が納骨と祖霊供養を受け付けている。これとおなじく羽黒山では霊祭殿で納骨と祖霊供養を,湯殿山では霊祭供養所で祖霊供養を受け付けるという。しかし納骨霊場で有名なのは高野山で,全国から納骨があつまるので日本総菩提所と称している。奥之院浄域内に大きな甕に入れて埋納したもので,平安末期からの甕や壺が出土している。これを高野山に運んだのは高野聖であった。これに対して個人的な小さな壺や竹筒の蔵骨器も出土するから,1人1人の遺骨を携えて納骨するものもあったわけで,現在もこの形式の納骨は盛んにおこなわれている。中世では奈良元興(がんごう)寺極楽坊のように,長押に木製納骨五輪塔を釘で打ち付ける納骨法もある。この寺は市中の寺院ではあるが,智光曼荼羅のために霊場化し,盛んに納骨がおこなわれて,竹筒型蔵骨器や羽釜型蔵骨器,柄杓型蔵骨器などが出ている。山形市郊外の山寺立石(りつしやく)寺は洞窟への納骨が盛んであったが,今は奥之院で納骨を受け付けている。
執筆者:五来 重
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