デジタル大辞泉 「紙芝居」の意味・読み・例文・類語
かみ‐しばい〔‐しばゐ〕【紙芝居】
2 表裏に違う動きを描いた紙人形を用いて芝居を演じたもの。明治中期に寄席の一人芸として始まり、のちに小屋掛けまた街頭で行われた。
演芸の一種。視聴覚教育材としても使われる。紙芝居は江戸時代の末ごろから明治中期にかけて興行された写し絵という動く幻灯から転化したものである。紙芝居の原型を、仏教の絵解きやのぞきからくりに求める説もあるが、それらは形態が似ているゆえの当て推量にすぎない。明治中期に扁平な紙人形を裏表に貼(は)り合わせたものを用いて、1人の演者が寄席(よせ)で演じた。演じる側は写し絵という名称を使ったが、観客は紙人形の芝居であるから紙芝居とよんだ。明治末に的屋(てきや)の手に渡って、大正年間には祭礼、縁日などで天幕張りの畳3枚ほどの広さの小屋で子供相手に入場料をとって演じた。おもな出し物は歌舞伎(かぶき)種の怪談物や侠客(きょうかく)物、あるいは『西遊記・孫悟空(そんごくう)』であった。のちにこの初期の紙人形の芝居を立絵(たちえ)とよぶが、演者は、立絵の最大のもので高さ15センチメートルぐらいの人形4枚までと、拍子木、太鼓、鉦(かね)、銅鑼(どら)などの鳴物を1人で操作しながら、台詞(せりふ)をしゃべって演じた。
1929年(昭和4)東京の立絵説明者約40人は的屋の親分に杯(さかずき)を返して、東京写絵業者組合を結成して、的屋の縄張りのない街路、空き地などで、入場料のかわりに飴(あめ)を売って紙芝居を見せるようになった。紙芝居業者は当時の世界経済恐慌による失業者の増加でしだいに増えた。1931年ごろからは、紙芝居は大道芸というよりは、失業者が子供相手にする飴売り行商のおまけになった。
1931年、東京・浅草菊屋橋あたりを回っていた紙芝居屋が、警察から「子供のためにならぬ」という理由で紙芝居を見せることを禁じられた。そこで紙芝居屋は警察の禁止外の絵物語の紙芝居を考案。この、何枚かの絵を枠に入れて順次1枚ずつ見せながら物語を説明するという新しい形式を、立絵に対して平絵(ひらえ)とよぶ。失業者群の紙芝居業への流入によって全国的に紙芝居業者が増えて、紙芝居の製作と説明は職業として定着した。それとともに、初めは高さ10センチメートル、横14センチメートルほどの画面であった紙芝居の大きさも、2、3年後には高さ18センチメートル、横25センチメートルほどを標準とするようになった。平絵の紙芝居の最初の人気番組はジュール・ベルヌと押川春浪(おしかわしゅんろう)の影響による空想科学冒険物『黄金バット』であった。従来の旧式な物語に比べると新鮮であったので大好評を博し、数か月で平絵は立絵を圧倒し、紙芝居といえば平絵と思われるようになり、のちに漫画や童話なども紙芝居化された。平絵紙芝居は肉筆で一部だけしかつくられず、それを順番に貸して全国に回した。1935年には紙芝居業者は東京で2500人ほど、全国では3万人に及んだ。1937年末、東京の紙芝居製作貸出し業者の大部分が連合して株式会社をおこし、やがて戦時文化統制に組み込まれた。これとは別に、街頭紙芝居を非教育的であると批判した教育関係者が1937年に印刷紙芝居の製作を始め、教育紙芝居と称して戦争のための国策宣伝に協力した。以後、肉筆の街頭紙芝居と印刷紙芝居の2種が存在する。第二次世界大戦末期の空襲で紙芝居の多くは焼失し、残った作品も敗戦後、軍政下の時期に軍国主義の宣伝をしたという理由で駐留軍により没収され、焼却された。
1945年(昭和20)末、戦争中に紙芝居の作画に従事していた数名の作画家が、東京の葛飾(かつしか)区東金町(ひがしかなまち)の加太こうじ宅に集まって紙芝居の製作と貸出しの仕事を始めた。以後、紙芝居は、食糧難とインフレの時代における闇(やみ)食品販売と現金収入の利点をもって急速に発展した。1948年には東京で3000人、全国では5万人の説明者がいた。『黄金バット』はまた流行し、さまざまな亜流を、紙芝居だけではなく児童雑誌、ラジオなどの物語にも発生させた。1950年ごろから菓子製造メーカーの復活、各種児童向き娯楽の普及、幼稚園・保育園・小学校の整備に伴って紙芝居の発展は止まり、1958年ごろからはテレビの普及などの結果、急速に衰退し、1960年以後は消滅に近い状態になった。
紙芝居をつくっていた人たちのうち、若手の画家は貸本用漫画や劇画に転じたため、のちに紙芝居の技法はストーリー漫画や劇画などに伝承された。また印刷紙芝居は、戦後の新しい教育のなかで視聴覚教育材として重視され、幼稚園・保育園・小学校・子供会・図書館での貸出し用などとしてつくられ、街頭紙芝居の衰退後も続いている。
[加太こうじ]
『南博他編『芸双書8 えとく(紙芝居・のぞきからくり・写し絵の世界)』(1982・白水社)』
現在は連続する絵を順番に見せて,それに説明をつける小演芸あるいは視聴覚教育材をいう。江戸時代後期にオランダから幻灯が渡来するが,その映写機とスライドを使って映像が動いて見えるようにくふうした写絵,大阪では錦影絵が紙芝居の原型である。やがて寄席芸になったが,明治中期に写絵を寄席や隅田川の納涼船でやっていた両川亭船遊という芸人は,収入が少なくて人手や費用がかかりすぎる写絵をやめて,結城孫三郎という芸名でやっていた糸操りの人形芝居を専門とするようになった。このとき,写絵のスライドの絵をかいていた通称新さんという落語の前座が,団扇を小さくしたようなものの裏表に人物などの動作をかき分けて,1人で演ずる紙人形の芝居を考案した。寄席ではその紙人形の芝居も写絵と呼んだが,客は〈写絵かと思ったら紙の人形の芝居だ。紙芝居だ〉といい,そこから紙芝居の名称が生まれたのである。紙人形の芝居は寄席では人気がなかった。興行物を扱うてきやが目をつけて新さんを作者兼画家として迎え,明治末期から縁日祭礼で子ども相手の興行物にした。以来,紙芝居は大正時代には畳2枚敷きぐらいのテント小屋で縁日祭礼に入場料をとって見せる小興行物になった。昭和初期の不況で失業した者のうちには,てきやの子分になり紙芝居をやって生活の資を得ようとする者がたくさんいて,紙芝居屋が増えて共倒れ状態になった。それで日取りに限りがある縁日祭礼ではなく,街路空地などで自由に紙芝居を見せようとする紙芝居屋が,てきやの親分に杯を返したことから紙芝居はてきやの手を離れた。
街路空地ではテント小屋を張れないので飴を入場料の代りに売るようになり,以後,失業者が子ども相手にする飴売行商人として紙芝居屋が増えた。1929年に紙芝居屋に客をとられる駄菓子屋が,怪談物や孫悟空の紙人形の芝居を見せる紙芝居の取締りを警察に頼んだことから東京浅草で紙芝居が禁止された。そのとき,そのあたりで商売をしていた紙芝居屋が絵本の説明をすることからヒントを得て絵物語形式の紙芝居を始めた。その最初のころの作品として《黄金バット》シリーズが作られて東京下町の子どもの人気を集めた。以来,紙人形の芝居はすたれて紙芝居といえば絵物語の形式になった。紙人形の芝居はそのときから〈立絵(たちえ)〉といわれるようになり,そして,それと区別するために絵物語形式の紙芝居を〈平絵(ひらえ)〉といった。35年には東京市内の紙芝居屋は2000人を算し,最盛期の36年には全国で3万人になった。肉筆で1組しか作らない作品を順番に貸して全国にまわした紙芝居屋の紙芝居に対して,37年には戦争宣伝の印刷紙芝居が作られて教育紙芝居と称した。紙芝居は太平洋戦争中,人員と資材の関係でさびれるが,戦後約10年間は再び盛んになった。しかし経済の高度成長下で失業者の減少とテレビの普及によって演者と客を失って衰退した。印刷紙芝居は小学校,幼稚園などで利用されるので残った。紙芝居を作っていた画家の中には劇画,ストーリー漫画に転じた者があって紙芝居作りの技術は劇画に伝わった。
執筆者:加太 こうじ
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
物語を10枚ほどの絵にして箱形の枠にいれ,順にみせて説明する絵解きの一種。幻灯を利用して人物の動作を表現した近世末期以降の錦影絵・写し絵が原形ともいう。昭和初期に出現し,香具師(やし)支配の飴売り行商のおまけとして街頭で演じられた。東京都荒川区町屋には戦前多くの紙芝居作家・画家が居住し,貸元(かしもと)・絵元(えもと)とよぶ元締役も集中して絵芝居のメッカをなした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
… 劇画と新しい名で呼ばれた様式はもっと前からあった。1929年の世界恐慌のあおりをうけた日本で,失職者が紙芝居をおこした。それはやがて戦争時代に国策にしたがうようにかいならされたが,45年の敗戦後に子どもたちのおもな娯楽として第2の黄金時代をむかえた。…
※「紙芝居」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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