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九条政基 くじょうまさもと

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

九条政基
くじょうまさもと

[生]文安2(1445)
[没]永正13(1516).4.4. 京都
室町時代後期の関白。父は満教。長禄3 (1459) 年元服,応仁2 (68) 年右大臣,文明7 (75) 年左大臣,翌年従一位関白となる。同 11年関白を辞した。政基は積極果断な性格であったらしく,明応5 (96) 年執事唐橋在数を,執務緩怠の理由で手討ちにし,勅勘をこうむった。

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百科事典マイペディアの解説

九条政基【くじょうまさもと】

室町後期の公家。1465年九条家の家督を相続,1476年関白・氏長者となる。1491年准后宣下。1496年政基・尚経父子は家領経営をめぐる対立から,九条家執事唐橋在数を殺害,そのため出仕停止の勅勘処分となった。
→関連項目細川政元政基公旅引付

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

九条政基 くじょう-まさもと

1445-1516 室町-戦国時代の公卿(くぎょう)。
文安2年5月7日生まれ。九条満家(みついえ)の子。寛正(かんしょう)6年兄政忠の隠居で家督をつぐ。文明8年従一位,関白,9年氏長者,のち准三宮(じゅさんぐう)となる。明応5年借財の問題から従兄弟の唐橋在数(ありかず)を殺害し勅勘処分をうける。家領の和泉(いずみ)日根荘の記録「政基公旅引付(たびひきつけ)」をのこした。永正(えいしょう)13年4月4日死去。72歳。号は慈眼院。

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朝日日本歴史人物事典の解説

九条政基

没年:永正13.4.4(1516.5.5)
生年:文安2(1445)
室町後期の摂家貴族。父は関白左大臣道教,母は唐橋在豊の娘。長禄3(1459)年正五位下に叙せられて以降,権大納言,右大臣,左大臣などを歴任し,文明8(1476)年関白氏長者。延徳3(1491)年准三后となる。五摂家のひとつ九条家に生まれた政基は,応仁,文明の乱以降凋落する公家社会を身をもって体験した。明応5(1496)年,公家としての公事用途を立て替えてもらっていた従兄弟の家司唐橋在数を,家領をめぐってのトラブルから子の尚経と共に殺害,父子共に勅勘を蒙った。政基は勅勘を解かれぬまま,文亀1(1501)年から永正1(1504)年まで家領和泉国(大阪府)日根野荘に下向,直務支配を行った。この期間中に綴った日記『政基公旅引付』は,16世紀初頭の畿内村落の実態を活写する記録として著名。晩年には子の尚経と争いを起こすなど気性の激しさを窺わせる。没後は慈眼院殿と称される。<参考文献>稲垣泰彦編『荘園の世界』,『図書寮叢刊 政基公旅引付』

(小森正明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

くじょうまさもと【九条政基】

1445‐1516(文安2‐永正13)
戦国初期の公家。1476年(文明8)関白氏長者となる。79年これを辞し,91年(延徳3)准后宣下。慈眼院と号した。96年(明応5)おそらく家領経営をめぐる利害対立を原因として,息男尚経とはかってみずからの手で九条家執事唐橋在数を殺害するという事件をひきおこした。また没落しつつある家領の維持を目的として,1501年(文亀1)3月よりおよそ4年間にわたり和泉国日根野荘に下向,滞在し,みずから荘務を執った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

九条政基
くじょうまさもと
(1445―1516)

室町後期の公家(くげ)。父は前関白(かんぱく)九条満教(みつのり)、母は権大納言(ごんだいなごん)唐橋在豊(からはしありとよ)の娘。1459年(長禄3)15歳で元服、従(じゅ)四位下右少将として出仕、翌60年(寛正1)従三位(じゅさんみ)非参議から中納言となる。61年権大納言、翌年従二位。65年九条家の家督を継いだ。68年(応仁2)24歳で正二位右大臣、75年(文明7)左大臣、翌年には従一位関白氏長者(うじのちょうじゃ)となった。79年、35歳で関白氏長者を辞し、82年に家督を子息尚経(ひさつね)に譲った。91年(延徳3)准三后(じゅさんごう)宣下。政基は応仁文明(おうにんぶんめい)の乱の最中に公家政界の枢位を歴任し、京都の荒廃、公家階級の没落を体験していった。家経済も破綻(はたん)し、家領和泉(いずみ)国日根荘(ひねのしょう)入山田(いりやまだ)村(大阪府泉佐野市)を従兄弟(いとこ)唐橋在数(ありかず)からの借銭の質に手放す状態であった。こうした経済的摩擦からか、96年(明応5)正月、政基・尚経父子は、執事でもあった在数を自亭で殺害し、公家政界に大きな衝撃を与え、父子ともに勅勘を受け、朝廷への出仕を停止された。2年後に尚経が勅勘を解かれたのを契機に薙髪(ちはつ)した政基は、1501年(文亀1)3月、守護細川氏の押領に苦しむ日根荘に下向し、04年(永正1)12月まで滞留し荘園の直接支配に従事した。この間の日記『旅引付(たびひきつけ)』をみると、かならずしも文化的素養に恵まれたとは思えないが、日記自体は当時の村落生活を知る好史料である。帰京した翌年10月にも、山城(やましろ)国小塩(おしお)荘(京都市西京区)の年貢収納のために下向している。永正(えいしょう)13年4月4日波瀾(はらん)多い生涯を閉じた。法号慈眼院、墓所は普門寺にある。[田沼 睦]
『『図書寮叢刊 政基公旅引付』(1961・養徳社) ▽『図書寮叢刊 九条家文書1』(1970・明治書院)』

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世界大百科事典内の九条政基の言及

【日根荘】より

…1431年(永享3),46年(文安3)の両度,領主の異なる日根野,井原,檀波羅蜜寺(だんばらみつじ)の3ヵ村百姓は,日根野村十二谷下池の用水利用や池堤の修築などについて契約状を作成し,村落による灌漑施設の共同利用管理を実現していたのである。1501年(文亀1)荘園領主九条政基は日根荘に下向し,入山田村大木の長福寺を居所として04年(永正1)11月まで直務(じきむ)支配を行った。その間の日記《政基公旅引付(まさもとこうたびひきつけ)》によって,16世紀初頭の村落生活の諸相,九条家の姿勢,守護勢力や根来(ねごろ)寺の動向など,さまざまな姿がとらえられる。…

【政基公旅引付】より

…前関白九条政基が,1501年(文亀1)3月より04年(永正1)12月まで,家領の和泉国日根野荘(ひねののしよう)(日根荘)に下向し,荘務を行った際に記した自筆の日記。全5冊。…

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