細川高国(読み)ホソカワタカクニ

デジタル大辞泉 「細川高国」の意味・読み・例文・類語

ほそかわ‐たかくに〔ほそかは‐〕【細川高国】

[1484~1531]室町後期の武将政元養子家督相続をめぐり澄元対立。前将軍足利義稙よしたね将軍職に復帰させ、管領となって幕政実権を握った。のち、澄元の子晴元三好元長に追われ、自刃

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精選版 日本国語大辞典 「細川高国」の意味・読み・例文・類語

ほそかわ‐たかくに【細川高国】

  1. 室町後期の武将。政元の養子。家督相続をめぐり同じく政元の養子である澄元と対立。前将軍足利義稙(よしたね)を将軍職に復帰させ、管領となったが、のち、澄元の子晴元と三好元長に追われ、自刃。文明一六~享祿四年(一四八四‐一五三一

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百科事典マイペディア 「細川高国」の意味・わかりやすい解説

細川高国【ほそかわたかくに】

室町後期の武将。細川氏庶流政春の子。1507年前管領細川政元が養子澄之らに暗殺されると,細川澄元とともに澄之討伐に功を挙げた。しかしまもなく澄元と不和になり,翌年前将軍足利義材(よしき)(義稙(よしたね))を擁して上洛した大内義興と結び,将軍義澄や澄元らを追い落として義材を将軍に還任させ,義興とともに幕政を掌握した。高国は管領となり,摂津丹波などの守護を兼帯した。1518年義興が帰国すると,高国の独擅場となり,1521年義材は高国の専横を嫌い阿波へ出奔。高国は義澄の子義晴を将軍に立て専制権力を確立した。しかし1527年三好元長らに京を追われ各地を転戦したが,1531年摂津尼崎で自刃した。
→関連項目足利義稙足利義晴細川晴元

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改訂新版 世界大百科事典 「細川高国」の意味・わかりやすい解説

細川高国 (ほそかわたかくに)
生没年:1484-1531(文明16-享禄4)

室町後期の武将。官途は民部少輔,右京大夫,武蔵守。細川氏の庶流政春の子で,幕政上さして重要な地位ではなかったが,1507年(永正4)前管領細川政元が養子澄之に暗殺されると,澄元に就いて同年澄之討伐に功を挙げ,にわかに幕府内で重要な地歩を占めるようになった。翌年周防逃亡中の前将軍足利義材(義稙)が大内義興に擁されて上洛すると,高国はこれと結んで将軍義澄,細川澄元を近江に追い落とし,義材の将軍還任に成功した。以後1518年に義興が帰国するまで,幕政は高国と義興が主導,高国は細川氏家督,次いで管領となり,摂津,丹波,讃岐土佐の守護を兼帯し,事実上畿内近国を支配した。18年以後はひとり幕政を壟断,将軍義材は傀儡化を嫌って21年(大永1)阿波へ出奔し,高国は新たに義澄の遺子義晴を将軍に立てた。27年旧澄元残党系の三好元長,細川晴元らに攻撃されて京都を逃亡,再起を図ったが31年摂津尼崎で自刃した。
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朝日日本歴史人物事典 「細川高国」の解説

細川高国

没年:享禄4.6.8(1531.7.21)
生年:文明16(1484)
室町時代の武将,室町幕府管領。通称六郎。民部少輔。右京大夫。武蔵守。法名道永,常桓。道号松岳。政春の子。細川政元の家督相続を巡る澄之,澄元の争いでは澄元に味方し,永正4(1507)年8月澄之を滅ぼした。しかし翌年4月には,伊丹元扶,内藤貞正らの国人を味方に澄元を近江に追放。同月,周防(山口県)大内義興と共に前将軍足利義尹(義稙)を堺に迎え,義尹が将軍に復帰すると,右京大夫,管領に任じられ,左京大夫義興と共にこれを支えた。同15年義興が帰国すると,澄元を擁する三好之長に一時入京を許すが,その後奪回。大永1(1521)年には将軍義稙を廃し,前将軍足利義澄の子義晴を擁立した。しかし,同6年,細川尹賢の讒言により香西元盛を殺害したため,元盛の兄弟波多野稙通,柳本賢治が挙兵,さらに阿波国から三好勝長・政長が堺に上陸し,やがて之長の孫元長が足利義維と細川晴元(澄元の子)を擁して堺に上陸するにおよび,高国政権は崩壊した。享禄4(1531)年6月,摂津国天王寺で三好元長に敗れて尼崎の商家に逃げ込んだが,捕らえられ、自刃した。

(森田恭二)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「細川高国」の意味・わかりやすい解説

細川高国
ほそかわたかくに
(1484―1531)

戦国期の武将。幕府管領(かんれい)。備中(びっちゅう)守護細川政春(まさはる)の子。細川政元(まさもと)の養子。通称六郎。官途は右京大夫(うきょうのだいぶ)・武蔵守など。法名道永(どうえい)のち常桓(じょうかん)。1507年(永正4)の政元暗殺後に台頭し、大内義興(よしおき)とともに足利義稙(よしたね)を盛り立て、細川澄元(すみもと)・三好之長(みよしゆきなが)らに対抗。1521年(大永元)に義稙が逃亡すると足利義晴(よしはる)を将軍に擁立し、足利義維(よしつな)・三好元長(もとなが)と対立する。1528年(享禄元)元長らに京都を追われて高国政権は崩壊するが、諸国を回って再起の時をうかがう。1531年摂津天王寺(てんのうじ)で元長らに敗れ、尼崎(あまがさき)に潜伏中を捕らえられ、6月8日に自刃した。

[仁木 宏]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「細川高国」の解説

細川高国 ほそかわ-たかくに

1484-1531 戦国時代の武将。
文明16年生まれ。細川政元の養子。養子同士の家督争いで細川澄之をほろぼす。さらに永正(えいしょう)5年細川澄元を追放し,前将軍足利義稙(よしたね)を将軍に復帰させて管領(かんれい)となる。大永(たいえい)元年将軍足利義澄の子義晴を新将軍としたが,澄元の子晴元らに攻められ,享禄(きょうろく)4年6月8日摂津尼崎(兵庫県)で自刃(じじん)。48歳。法号は道永,常桓。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「細川高国」の意味・わかりやすい解説

細川高国
ほそかわたかくに

[生]文明16(1484)
[没]享禄4(1531).6.8. 摂津
室町時代末期の武将,管領。政春の子。法名,道永,管領政元の養子となり大内義興らと結び細川氏のなかで勢力をふるい,将軍 (足利義稙〈よしたね〉および義晴) を名目的な存在として実権を握った。やがて三好元長らに追われ,自殺。

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