江戸時代後期の尾張南画を代表する文人画家。名は成昌,字は伯明,通称大助竹洞のほか筆樵,融斎,痴翁などとも号した。父は名古屋の産科医玄棟。幼少から絵を好み,14歳で山田宮常の門に入って絵を学び,のち古画収集家であった豪商神谷天遊に従い,神谷宅に寄寓していた山本梅逸らと山水画はじめ古今の名画を模写して修業した。1795年(寛政7)天遊のもとを離れ,やがて京都に上って元・明代の絵画に触れ,また古社寺を巡って作風を形成し,山水画に長じた。26歳ですでに画論書《画道金剛杵(こんごうしよ)》を著し,晩年の《融通四君子画譜》に至るまで多くの画論を残したが,京都在住中に儒学,国学の修養を重ね,尊王論の理論家としても知られるようになった。歌論,国家論などの著作も多い。頼山陽,貫名海屋(ぬきなかいおく),梁川星巌らと交友があり,長子竹渓(1816-67)は山本梅逸に学んで文人画をよくした。
執筆者:並木 誠士
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江戸後期の南画家。名古屋の人。名は成昌(せいしょう)、通称を大助、字(あざな)を伯明(はくめい)といい、竹洞はその号。初め名古屋の画家山田宮常につき、のち収集家神谷天遊の下で古画を臨模し画技の基礎をつくりあげる。同輩に山本梅逸(ばいいつ)があった。27歳で梅逸とともに上京、画家として門戸を構え、儒学や国学の研究にも努める。『画道金剛杵(こんごうしょ)』『竹洞画論』など多くの著作を残す理論家肌の人であった。画は瀟洒(しょうしゃ)な山水画を得意としたが、やや形式的な感を免れない。『神州奇観図』『孔雀(くじゃく)図』などの作品がある。また子の竹渓も画家として聞こえた。
[星野 鈴]
(星野鈴)
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