絵入自由新聞(読み)えいりじゆうしんぶん

改訂新版 世界大百科事典 「絵入自由新聞」の意味・わかりやすい解説

絵入自由新聞 (えいりじゆうしんぶん)

明治時代,自由民権期の小(こ)新聞自由党主義主張庶民に浸透させることを目的として,1882年9月1日に創刊。自由党は当時《自由新聞》という機関紙をもっていたが,それは知識人階層を対象とする新聞であった。タブロイド判挿画,傍訓入りなどは他の小新聞大(おお)新聞・小新聞)と共通していたが,政治小説コラムなどで自由党色をだしていた。桜田百衛や夢柳宮崎富要らが記者として活躍。90年11月15日に《かみなり新聞》に合併し,《雷新聞》と改題
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百科事典マイペディア 「絵入自由新聞」の意味・わかりやすい解説

絵入自由新聞【えいりじゆうしんぶん】

1882年9月1日創刊の自由党系小新聞(こしんぶん)(大新聞・小新聞)。日刊。平明な文章小説などには絵を入れ,庶民大衆自由民権思想啓発を目ざした。最盛期の発行部数は1万弱。1890年廃刊,1892年復刊されたが,同年末に《万朝報》に合併。
→関連項目月岡芳年

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「絵入自由新聞」の意味・わかりやすい解説

絵入自由新聞
えいりじゆうしんぶん

1882年9月1日創刊された自由党の小 (こ) 新聞。 81年に結党した自由党は,大 (おお) 新聞として『自由新聞』を創刊したが,市民大衆に自由民権の思想を普及するため『絵入自由新聞』を創刊。黒岩涙香探偵小説などで人気を集め,自由党の解党,『自由新聞』の廃刊後も自由民権のとりでを守り続けた。しかし 92年,黒岩の『万朝報』に吸収された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「絵入自由新聞」の意味・わかりやすい解説

絵入自由新聞
えいりじゆうしんぶん

1882年(明治15)9月1日創刊された日刊の小新聞。和田稲積(いづみ)、坂崎斌(びん)ら自由党土佐派の人々が中心になり、党機関紙『自由新聞』の別働隊の役割を果たした。『自由新聞』廃刊後も自由党系紙として大隈重信(おおくましげのぶ)の条約改正案に強く反対(1889)したりしたが、90年11月『かみなり新聞』と合併し『雷新聞』となる。92年4月和田らが再刊したが、翌年6月『萬朝報(よろずちょうほう)』に吸収合併され、廃刊した。

[春原昭彦]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「絵入自由新聞」の解説

絵入自由新聞
えいりじゆうしんぶん

明治中期の政党系小新聞。1882年(明治15)9月1日東京で創刊。発行所の絵入自由新聞社の社屋は自由党機関紙「自由新聞」を発行する自由新聞社の隣にあり,自由党の主張を大衆に普及させるのをねらいとした。桜田百衛(ももえ)・宮崎富要(とみやす)(夢柳(むりゅう))らが記者で活躍。90年11月15日「雷(かみなり)新聞」と合併後,92年4月8日に一時再刊されたが,同年12月「万(よろず)朝報」に吸収された。最盛期の発行部数約9000部。

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世界大百科事典(旧版)内の絵入自由新聞の言及

【大新聞・小新聞】より

…小新聞の世界では大新聞ほどはっきりした政党色はなかったが,自由民権運動が高揚するとともにその色彩が多少とも現れる。《読売新聞》《仮名読新聞》《東京絵入新聞》《絵入自由新聞》などが主要な小新聞である。なお,大阪では大新聞として《大阪日報》,小新聞として《浪花新聞》《朝日新聞》が代表格である。…

※「絵入自由新聞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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