ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
自由新聞
じゆうしんぶん
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1882年(明治15)6月25日に東京で創刊された自由党の日刊機関紙。板垣退助(たいすけ)を社長に、馬場辰猪(たつい)、中江兆民、田中耕造、田口卯吉(うきち)、末広重恭(しげやす)(鉄腸)ら当代一流の民権論者が社説を担当、嶋本仲道(しまもとなかみち)(主幹)、植木枝盛(えもり)、西河通徹(つうてつ)、栗原亮一(りょういち)らが在社、格調の高い自由民権論で政府を批判すると同時に、改進党を偽党と攻撃、その撲滅を唱えた。しかし板垣の洋行費の出所をめぐる党内紛議で、同年秋、田口、末広、馬場、ついで中江が退社、古沢滋(しげる)が主幹となったが、政府の民党系紙弾圧などもあって紙勢は伸びず、84年10月自由党も解体したため、機関紙としての存在意義を失い、85年3月15日廃刊届を出した。その後90年10月20日板垣社長の下で再興されたが、翌年3月31日廃刊。4月22日『自由』として発刊、93年7月1日『自由新聞』と改題、立憲自由党を改称した自由党の機関紙となったが、95年2月、党との関係を絶ち、97年1月『明治新聞』と改題された。
[春原昭彦]
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…自由党の主義主張を庶民に浸透させることを目的として,1882年9月1日に創刊。自由党は当時《自由新聞》という機関紙をもっていたが,それは知識人階層を対象とする新聞であった。タブロイド判,挿画,傍訓入りなどは他の小新聞(大(おお)新聞・小新聞)と共通していたが,政治小説やコラムなどで自由党色をだしていた。…
…自由民権運動末期に刊行された自由民権派の小新聞(こしんぶん)。自由党は大新聞(おおしんぶん)として1882年6月に《自由新聞》,小新聞として84年5月に《自由灯(じゆうのともしび)》をそれぞれ創刊して,自由民権思想の国民への浸透を図ったが,《自由新聞》(第1次)は85年に権力の弾圧と党内抗争によって廃刊となった。《自由灯》は社長星亨を中心に継続して刊行され,一時は東京第一の部数を誇ったが,やはり弾圧を受けて86年1月に《灯新聞》と改題し,さらに翌87年4月に《めさまし新聞》と再改題された。…
※「自由新聞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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